*「紛争の被害者を平和構築の担い手に」JCCPはアフリカ・中東の平和構築を支援する認定NPO法人です。

堂之脇 光朗

1954年 東京大学法学部卒業、外務省入省。

在米国大使館公使、在中国大使館公使、欧ア局審議官、在ホノルル総領事、中南米局長などをつとめた後、ナイジェリア大使、ジュネーブ軍縮会議代表部大使、メキシコ大使を歴任。1996年から2004年まで外務省参与。その間、国連小型武器政府専門家パネル議長(1996-97)、国連事務総長軍縮諮問委員会議長(1996-97)国連小型武器政府専門家グループ議長(1998-99)を務め、2001年の国連小型武器国際会議ではハイレベル・セグメント(閣僚級一般討論部門)の議長をつとめた。著作には『予防外交』(編著、日本国際フォーラム発行、1999)などがある。

2015.3.4
「SIPRI年鑑」による「紛争」の発生件数の数え方

「SIPRI年鑑」による「紛争」の発生件数の数え方

2015年3月4日


 ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)が1969年以来出版しているSIPRI年鑑は世界各国の軍事支出、武器の輸出入データ、武力紛争の発生件数などにつき公開情報を基に編纂される資料集であるが、この種の年鑑としては最も信頼性が高いとされている。
私は1990年頃にジュネーブの軍縮会議日本政府代表部大使をしていたので、外務省退官後もこの年鑑を常に机上に置き参照していたが、この3、4年間は軍縮問題に関しては専門雑誌や論文を読む程度で、この年鑑を参照することはなかった。ところが、このほど当センターがこの年鑑の最新版(2014年版)を購入したので久しぶりに目を通してみて、この年鑑による「紛争」の発生件数の数え方が大幅に変更されているのに一驚した。

 数年前までは同年鑑では「武力紛争」とは「年間1000人以上の死者が出た武力紛争で少なくとも一方の当事者が国家か政府であり、政権または領土を争点とするもの」とされ、そうした「武力紛争」の過去10年間の発生件数などのデータを掲載していた。私も講演などではそのようなSIPRI年鑑のデータをよく使った。例えば、1990年代の10年間で500万人、1年で平均50万人もの死者が出た国内紛争や地域紛争では、主として使われた小型武器こそが事実上の大量破壊兵器であると言われたものだが、そうした「紛争」の発生件数はSIPRI年鑑では1990年に30件、1991年に31件であったのが2009年には17件、2010年には16件へと減少し、とくにアフリカ地域では1998年、1999年には11件であったのが2009年、2010年には4件にまで減少した。これはわが国の主導で国連が進めてきた小型武器問題への取組が少なからず奏功した結果である、と論じたものである。

 ところが、SIPRI年鑑の最新版によれば「武力紛争」とは、年間1000人でなく25人以上の死者が出た紛争であるとされ、当事者が誰であろうと、目的が何であろうと、すべての紛争が含まれることになっている。その結果、例えば、同年鑑の2009年版では1999年から2008年までの10年間に発生した「主たる紛争」は34件とされていたのが、最新の2014年版では2003年から2012年までの10年間に435件もの「武力紛争」が発生したとされ、発生件数が10数倍も増加したのである。もっとも年間死者数が1000人から25人へと40分の1に引き下げられたわりには発生件数が40倍でなく10数倍にとどまったことは、世界がそれだけ平和になった証拠とも言えるであろう。

 言うまでもなく、SIPRI年鑑の定義は不変ではなくときどき変更されるのであるが、今回ほど大胆な変更は滅多にないことである。もっとも、今から振り返ってみると、その前兆らしい動きは2008年頃から存在したのであった。それまでは年間死者数1000人以上の紛争であれば、翌年に1人でも死者が出ればその紛争はその年にも継続したこととされており、私もかねてからこれは行きすぎではないかと思っていた。ところが、2008年版からは継続には年間死者数が1名でなく25人以上と変更され、私も大いに納得した。
しかし、このように年間死者数25人以上の紛争を「紛争」に数えるとになると当事者の一方が国家や政府である紛争だけでなく、国内の部族間の武力衝突でもその程度のものは多発しており、それらをSIPRI年鑑の統計に載せないのは何故かとの疑問が生ずるのは当然のことである。現に、同年の年鑑では「非国家紛争」をはじめて取り上げて論じており、翌2009年の年鑑からは「一方的暴力」の発生件数を掲げるようになったのである。

 いずれにしても、SIPRI年鑑最新版では年間死者数25人以上の「武力紛争」をすべて統計に含めており、過去10年間に発生した435件の「武力紛争」をその態様により、「国家ベースの紛争」、「非国家紛争」、「一方的暴力行使」の3種類に分類している。3種の紛争の発生件数は「国家ベースの紛争」が76件、「非国家紛争」が231件、「一方的暴力行使」が128件であったとされている。10年間の総数でなく、最近の2012年1年間にかぎってみると、発生件数はそれぞれ32件、45件、20件の合計97件であったとのことで、他の二つにくらべて第一の「国家ベースの紛争」の比重が大きくなっているのは、「国家ベースの紛争」は複数年にわたって継続する件数が多いからであると考えられる。

 以下で、これら3種の紛争を少し詳しく検討してみたい。順不同となるが、「非国家紛争」とは「国家や政府以外の組織された民間団体間の武力紛争」のことであり、その発生件数は全体の435件のうち231件と最も多い。地域別ではアフリカが最多の160件とのことであるが、そのうち132件はコンゴ民主共和国、エチオピア、ケニア、ナイジェリア、ソマリア、スーダンの6国に集中していたとのことである。また、それらの紛争の大多数は異なる種族、宗派間対立で、紛争当事者団体の組織化の度合は概して低かったとのことである。他方、アフリカ以外の地域では組織化された団体間の紛争が大部分を占め、米州(と言ってもメキシコだけであるが)ではそれらの紛争のすべてが麻薬カルテル間の紛争であったとのことである。死者数はアフリカでは一件あたり平均146人であったのに対し、米州では一件あたり554人に達したとのことである。いずれにしても、件数は多いが規模は小さく、単発的な紛争が中心であったものと考えられる。

 次に、「一方的暴力行使」は「国家または政府、若しくは組織された団体による組織されていない民間人に対する暴力行使」であり、全体で435件のうち128件と2番目に多いが、暴力行使主体は政府または国家よりも民間軍事組織の方が多かったとのことである。そのような民間軍事組織の代表例はケニア・ソマリアのアル・シャバブ、ナイジェリアのボコ・ハラム、イラクの「イスラム国家」(2012年当時)などであったとされている。他方、暴力行使主体が国家であった代表的な事例は2003年から2004年にかけてのスーダン、2011年のシリアなどであったとされている。これらの紛争も多くは単発的なものと考えてよいであろう。
第一の「国家ベースの紛争」に立ち戻ってみると、これこそが従来のSIPRI年鑑で「主たる紛争」として取り上げられてきたものであるが、その発生件数は1999年から2008年の10年間で34件であったのに比べて、2003年から2012年の10年間では76件で従来にくらべて2倍を少し上回る程度であり、年間死者数が1000人以上から25人以上に引き下げたわりには増加幅が少ないことが注目に値するであろう。

 さらに、SIPRI年鑑では3種類の紛争のうち「国家ベースの紛争」についてのみは年間の死者数が1000人を超えるものを「戦争レベルの紛争」、1000人以下のものは「小規模紛争」と定義している。具体的には、2003年から2012年までの10年間に発生した「国家ベースの紛争」76件のうち58件が「小規模紛争」で、18件が「戦争レベルの紛争」であったとされている。この18件の「戦争レベルの紛争」とは、年間死者数が1000人以上であり、まさしく従来の年鑑が「主たる紛争」として扱ってきた紛争に他ならない。しかも、この件数は私が前記の講演で使った「1990年には30件、1991年には31件であったのが2009年には17件、2010年には16件へと減少した」との件数と殆ど変らないことも注目に値するであろう。
 補足となるが、SIPRI年鑑最新版にはこの10年間の「国家ベースの紛争」76件の統計表が掲載されており、その統計表のなかで「紛争のタイプ」が「国家間紛争」、「国内紛争」、「国際化された国内紛争」の3種類に分類されている。圧倒的に多い(80%以上)のが「国内紛争」で、「国家間紛争」は5件しかなかったとされている。また、これらの紛争の発生件数を地域別で示しており、アジア・太平洋が30件(39%)、アフリカが29件(38%)で大部分を占めている。いずれも興味深い数字である。
 なお、「国家ベースの紛争」の定義で「紛争当事者の少なくとも一方が国家若しくは政府であり、政権または領土、若しくは双方を争点とするもの」としている点は従来から変わらない定義であるが、これが武力紛争かテロ活動であるかを区別するうえで重要なポイントであることにも留意しておく必要があろう。政権や領土を争う紛争当事者であれば、身元も所在も明らかとならざるを得ないのであるが、テロリストは身元を隠したままで特定の人びとを暗殺したり、不特定多数の一般人を殺傷してパニック状態に陥れたりするのであり、決して自ら政権を奪ったり、領土を支配したりはしないのである。それをすれば身元が知れ、逮捕、処罰されるのを恐れるからである。

 最後に、以上の大幅に変更されたSIPRI年鑑の紛争の数え方についての私の感想を述べることとしたい。私が大学生の頃までは「戦争」とは国家間で戦われるもので、宣戦布告などの一定の手続きを経て開始されるのであれば国際法上問題はなかったのであるが、1929年の「不戦条約」、1945年の国連憲章以降は「戦争」は自衛のためを除き国際法上許されなくなった、と教えられ、他方、国内の反政府勢力との武力紛争、国内の対立勢力間の武力紛争などは「内戦」とか「武力紛争」と呼ばれる、と教えられたものである。ところが、今日では武力衝突が国家間であるか否かはそれほど問題とされず、25人とか1000人といった年間死者数の規模を基準に数えるようになっている。まさに隔世の感があるが、「国家の安全保障」だけでなく「人間の安全保障」の重要性が認識されるようになった今日では、この新しい数え方の方が実情に合致した、役に立つ数え方であると考えて間違いないであろう。

2015.1.1
新年のご挨拶

新年のご挨拶

2015年1月1日

 21世紀に入って15年となり、前世紀を特徴づけた「世界戦争の恐怖」は遠くなりにけりとの感はありますが、アフリカや中東、さらには東ヨーロッパ、南アジア、東アジアなどでは武力衝突の火種が燻っており、また、地球規模では自然災害や疫病への一層の取組が課題となっています。平和で安定した世界を築くためには恐怖からの自由、貧困からの自由、そして尊厳されて生きる自由を三本柱とする「人間の安全保障」の視点に立った「平和構築」が必要との考え方はわが国では早くも2003年のODA大綱で確立されました。
 その後、2013年暮れには安倍政権により「平和構築」を一層重視する「国際協調主義に基づく積極的平和主義」を掲げた「国家安全保障政策」が発表されました。こうした状況のなかで、当センターは発足当初から地域紛争、民族紛争などの「紛争予防(発生防止、拡大防止および再発防止)」のために国家や国際機関の努力に加えて「民間レベルにおける日本の貢献を強化」することを目的として活動してまいりました。現実問題としてはその大半は紛争の「再発予防」で、ブトロス・ガリ元事務総長は当初からこれを「平和構築」とも呼んでいましたが、こちらの方が用語としてはその後一般化したので、当センターの活動目的も「紛争予防・平和構築」と言い換えることにしています。そして、「人間の安全保障」の視点からすれば「平和構築」には戦争や紛争の恐怖だけでなく暴力や自然災害などの「恐怖からの自由」も含まれることになるのです。
 当センターはこのような「紛争予防・平和構築」活動を当初はカンボジア、スリランカ、アフガニスタンなどで実施し、その後、2007年頃からは紛争の多くは収まりつつあるものの再発予防と平和構築へのニーズが高いアフリカ、とくにケニア、ソマリア、南スーダンを中心に展開してまいりました。具体的には若者たちの啓発・教育、職業訓練、コミュニティー・レベルでの対立グループ間の信頼醸成、治安能力改善、暴力犠牲者支援などの活動をおこなっており、詳細はホームページやニュースレターなどでもご紹介しています。幸い、本部事務所で研修を希望される若いインターンの方々を含め、こうした活動に関心を示す人たちが少なくないこともあり、当センターの海外事業活動の規模は年々着実に拡大・発展してきております。これまで当センターの活動をご支援くださった会員や事務職員の方々はもちろん、ご寄付その他の形で暖かく力強いご支援を賜りました企業、団体、学校、個人などの幅広い支持層の方々にも今後とも一層のご理解とご支援をお願い申し上げる次第です。

2014.11.21
近況ご報告――日本のODA60周年など

近況ご報告――日本のODA60周年など

2014年11月21日

 去る11月15日には日比谷のイイノ・ホールで国際協力機構(JICA)主催の「国際協力60周年シンポジウム」を傍聴してきました。500名を超える参加者を前に岸田文雄外務大臣とヘレン・クラーク国連開発計画(UNDP)総裁による基調報告がおこなわれ、加えてデル・ロサリオ フィリピン共和国外務大臣、マイケル・カマウ ケニア共和国運輸・インフラ長官などによるパネルディスカッションもおこなわれるなど、充実した有意義なシンポジウムでした。
岸田大臣からはわが国が政府開発援助(ODA)を開始して今年が60年を迎える節目の年であるので11年ぶりに「ODA大綱」を見直しているところであり、その方向性としては、昨年暮れに発表された「国家安全保障政策」の「国際協調主義に基づく積極的平和主義」に沿ってこれまで以上にODAを通じた非軍事的な協力により国際社会の平和と繁栄に貢献することとしたく、また、先進国からの民間資金が既にODAを大きく上回っている今日ではODAは民間主導の成長を軌道に乗せるための「触媒」の役割を果たすべきであり、「質の高い成長」を促すためにODA以外の他の公的資金、民間企業やNGOなどとも連携した「オールジャパンの協力」を目指したく、さらには、「人間の安全保障」の視点から「一人ひとりを恐怖と欠乏から解き放ち、個人の豊かな可能性の実現」を図りたいとの趣旨を強調されました。「恐怖と欠乏からの自由」が戦争や紛争だけでなく自然災害なども含む巾広い概念であることは申すまでもありません。
 日本の開発援助はアジア諸国への戦後賠償から始まったのですが、その当時からの成功例とも言うべきフィリピンのロザリオ大臣からは、今後の日本のODAに期待するのもさらなる成長と貧困撲滅に向けての貢献にほかならないといった発言がありました。また、最近の日本の開発援助で重視されるアフリカ地域を代表する形となったケニアのカマウ長官からは、スーダン、ソマリアなどの脆弱国家に囲まれたケニアとしては日本に「平和と安定のための投資」を期待したい、さらに、諸外国からの民間投資を活用しての「質の高い成長につなげる触媒」としては日本のODAによるインフラ整備、とくにケニアとウガンダを結ぶ北部回路解説への支援を期待したいとの発言がありました。
 日本の開発援助は1954年のコロンボ・プラン(開発途上国支援のための国際機関)加盟に始まり今年で60年を迎えますが、実は、私が外務省勤務を始めたのも同じ1954年でしたから、誠に感慨深いものがあります。軍国主義を捨て去り平和国家として国際社会に復帰を果たしたわが国がそれ以来今日まで対外政策上の効果的な手段として最大限に活用してきたのがODAでしたが、私も長年にわたる外務省勤務を通じてそのことを痛感してきたのです。また、私の外務省での最後の10数年は国連の小型武器問題や紛争予防・平和構築関係の仕事であった関係からその後は当センターの活動に関与していますが、そこでもODA資金を活用して(他の国際NGOと同様に公募、入札形式で)紛争多発地域などでの事業活動をおこなっています。したがって、私は社会人になって以来今日まで一貫して日本のODAにかかわる仕事に従事してきたことになります。
言うまでもなく、以上にご紹介したような「積極的平和主義」や「オールジャパンによる質の高い成長への貢献」などが「新ODA大綱」の柱となるのであれば、これが当センターを含めわが国の国際NGOのこれからの活動にとり追い風となることは間違いないでしょう。
 以上を別とする当センターの近況としましては、引き続き瀬谷ルミ子理事長が各地での講演会に講師として引っ張り凧であり、最近では当センターの有力な支援者である日本国連協会北海道支部長の伊藤義郎様が主催された札幌市での「国連の日」(10月24日)講演会や、私も親しくご指導頂いた故大来佐武郎元外務大臣生誕100周年記念講演会などにも講師として招かれました。こうした瀬谷さんの活動は「紛争予防・平和構築分野でのわが国の民間レベルの貢献を推進する」との当センターの目的に沿ったものであるわけです。
同様に、当センターには半年から1年といった比較的短期間のインターンとして勉強も兼ねて働いてくださる優秀な学生さんたちが常時2、3名おられますが、これも民間レベルでの紛争予防・平和構築への関心・理解を深めるとの意味で当センターの目的に合致した活動であるのです。
 さらに、この11月下旬には石井由希子事務局長が新規事業の事前調査、企画・立案のためにトルコに出張しますが、これが有意義な事業立ち上げにつながることを期待しているところです。
また、前回の「会長掲示板」でもご報告しましたが、わが国の文民警察の海外派遣問題に関して、当センターの組織としての提言ではなく、私自身の知識・経験をもとにした提言をとりまとめましたので、これと当センターの小川和久理事が以前にとりまとめたこの問題について提言とを一緒にして、8月末から9月はじめにかけて同理事と二人で関係各省の担当局長の方々をお訪ねし、説明して回る機会を持つことができました。
 このほか、当センター本部事務局の職員たちから、私が昨年7月に会長に就任して以来、前明石康会長当時にはホームページに掲載されていた「会長からのメッセージ」が欠落したままになっているので復活できないかとの問題提起がありました。実は、昨年7月の会長の掲示板でも説明しましたように、国家公務員を長くつとめた私が民間NGOの会長に就任するのは好ましいことではなく、無給にしても天下りのように誤解されかねないこともあるので、お引き受けすること自体に大きな躊躇がありました。しかし、諸般の事情によりこれをお引き受けした以上は、会員その他職員たちも含む当センター関係者各位に向けて、また、それ以外の一般の支持者や関心を有する方々に向けて、掲示板のような時折の私の感想や近況報告などではなく、恒常的な「メッセージ」としての「会長のご挨拶」を用意した方がよいと考えるようになりました。そのタイミングとしては、唐突にこれを掲載するよりも、年が改まる明年元旦の「会長の掲示板」に先ずこれを掲載することとし、私がその次の寄稿文を掲示板に載せる時点から独立した経常的な「会長のご挨拶」または「会長からのメッセージ」としてホームページに載せることにしてはと思っております。
なお、今年は私の本職ともいうべき軍縮専門家としての仕事として日本軍縮学会が準備している「軍縮辞典」の編集作業のお手伝いに忙殺された年でもありました。同学会の会員としての私は最長老の一人ということになりますので「辞典」の10項目ほどの原稿をお引き受けしました。1項目について500字から1500字程度ですが、私が実務から引退して既に10年ほどになるので、例えば「消極的安全保障」といった項目についても最新の情報を織り込んだ内容とするためにはかなりの作業量が必要でした。それでも数週間前に何とかこれを済ませることができ、一息ついているところです。
ところが、11月下旬には降って湧いたように突如として衆議院が解散され、12月中旬には総選挙で慌ただしい年の瀬を迎えることになりましたが、取りあえず以上のとおり近況をご報告させて頂きます。

2014.9.5
文民警察官の海外派遣問題について

文民警察官の海外派遣問題について

2014年9月5日

以下は当センターの理事会での小川和久理事からの問題提起に応じて私が起案した提言を含む所感文ですが、このほど小川理事と一緒に外務省、警察庁、内閣府国際平和協力本部の関係責任者を往訪し、その趣旨に沿って提言申し上げましたので、ご参考までに紹介させて頂きます。

平和構築、とくに治安改善分野でのわが国の貢献について(PDF: 322KB)

※なお、本提言は個人の見解であり、所属組織の公式見解ではありません。

2014.4.7
設立15周年を迎えたJCCP

設立15周年を迎えたJCCP

2014年4月7日

 万物が蘇る新緑の候で、街角では新社会人や大学新入生たちを多く見かける季節となりました。当センターも今年で丁度設立15周年を迎えることから、この機会に事業活動の更なる発展を期して決意を新たにしています。
 設立15周年と言っても、当センターは1999年7月に財団法人日本国際フォーラム付属の任意団体「日本予防外交センター」として、当時の小渕内閣からのご支援も得て発足したのでした。しかし、定款にも掲げられた「紛争予防のために民間の分野における日本の貢献を強化し、もって世界平和と国際協力の推進に貢献する」との目的に沿った活動を行うためには政府からの支援を受けず、日本国際フォーラムからも独立した団体となることが望ましいことは早い段階から認識され、そのための努力も行われてきたのでした。その結果、2002年2月には名称も「日本紛争予防センター」と改めた特定非営利活動法人としての認可が東京都庁から得られ、その年の7月に設立総会を開催して純然たる民間団体として再出発したのでした。
 このようにして誕生した「日本紛争予防センター」の理事長に私が就任し、事務局長に瀬谷ルミ子さんが就任してから7年ほどとなりますが、その間に当センターの事業活動、事業規模がアフリカ地域を中心に着実に発展してきたことはご案内のとおりです。また昨年7月には当センターは更なる飛躍を目指して運営体制の刷新をはかることとなり、在ケニア・ソマリア代表の石井由希子さんが事務局長に就任し、瀬谷さんが理事長に、私が会長へと昇格したのです。したがって、設立15周年を期しての更なる飛躍に向けての動きは実は昨年7月から始まっていたのです。
 それ以来今日まで9カ月ほどが経過しましたが、この機会にこの間の当センターの事業活動や諸般の情勢を振り返って、当センターの事業活動の更なる発展に向けての条件が整っているかどうかを考えてみたく思います。
 先ずは、以前この「会長の掲示板」でも言及しましたが、瀬谷理事長が石井事務局長に本部事務の大部分を任せられるようになり、外部での講演その他の活動により多く専念できるようになったことは当センターの更なる発展のためのプラス要因と考えてよいでしょう。例えば、昨年9月から瀬谷さんがTBSのテレビ番組「サンデー・モーニング」に時折出演するようになったお蔭で当センターの知名度も一層高まりました。また、昨年10月28日の国際紛争に関する「赤十字シンポジウム2013」にパネリストとして登壇し、12月7日のお茶の水女子大学での国際シンポジウム「平和構築と女性」でもパネリストをつとめるといった瀬谷さんの活発な講演活動も平和構築活動の重要性についての国民的関心と理解を高めるのに役立っていると思われます。
 次に想起されるのが昨年12月中旬に安倍内閣が「国家安全保障戦略」と題する閣議決定文書によりわが国の基本的外交政策として始めて「国際協調主義に基づく積極的平和主義」が採択されたことです。安倍総理がこれまで強調してこられたのはアフリカなどの紛争地における人材育成などの平和構築活動への協力の重要性でしたから、「積極的平和主義」の名のもとに推進されるのも主としてこの分野での活動でしょう。これが、同じ分野での民間の貢献を目的とする当センターの活動にとり追い風となることが期待されます。
 他方、同じく昨年12月中旬には当センターがJICAの委託で事業を行っている南スーダンでクーデター未遂事件があり、残念ながら治安情勢が悪化し部族間武力衝突に逆戻りしているのは当センターの活動にとりマイナス要因です。その結果、当センターはJICAの指示により現地邦人職員全員を国外退避させ、現地での事業活動は現地人職員への電話連絡などの遠隔操作で行うことを余儀なくされています。今年に入ってからは対立部族間の和平交渉も開始され断続的に続けられていますが、未だに妥結には至らず不透明な状況です。その間に国内避難民も急増しており、本年3月からは当センターもジャパン・プラットフォームの助成のもとにジュバ近郊で国内避難民向けの緊急支援事業を開始しました。この支援事業も当面は遠隔操作で行っている状況であり、一日も早い和平交渉の妥結と治安状況の改善が望まれています。
 なお、本年1月29日には当センター主催で「世界で一番新しい国での草の根支援~南スーダンでの試み」と題する活動報告会を市ヶ谷のJICA国際ひろばで開催したところ、若い人たちを中心とする60名ほどの聴衆が集まり盛会でした。一時帰国中の当センターの中嶋秀昭在南スーダン代表による報告のほか、ハイチや南スーダンPKOへの参加実績のある陸上自衛隊研究本部所属の浦上法久2等陸佐などが参加したパネル・ディスカションも行われました。紛争地の現場での軍民協力の必要性はかねてから強調されてきたところですが、このようにユニークな自衛隊との共同報告会を開催できる当センターの役割が今後一層高まることも期待できるでしょう。
 同じく本年1月には安倍総理がコートジボワール、モザンビーク、エチオピアを訪問し、「アフリカの平和と安定のための日本の貢献・積極的平和主義」として南スーダン、サヘル地域、中央アフリカの情勢改善への貢献を含む約3.2億ドルの紛争・災害支援への用意を表明しました。また、この訪問には33もの日本の民間企業・団体・大学の会長・社長レベルの代表も同行して日本・アフリカ間の経済・学術協力関係の強化もはかられました。これもアフリカでの活動に力を入れてきた当センターの今後の事業展開にとりプラス要因となると考えてよいでしょう。
 より最近では、2月26日には東京本部事務所で当センターの第38回理事会が開催されましたが、同じ日にケニアのナイロビ市の日本大使館で寺田達志大使と当センターの難波茂基在ケニア・ソマリア代表の間で「ナイロビ市マザレ・スラムにおける民族間の対立抑止のためのコミュニティー平和構築事業」に対する日本NGO連携無償資金贈与契約が調印され、当センターが約5000万円規模のこの事業を平成24年度から25年度にかけて実施することが決まりました。さらに、3月26日にはこのような事業活動を含めた平成24年度の当センターの事業計画案と活動予算案を採択するための第25回通常総会が東京本部事務所で開催されました。はからずも当センター設立15周年を迎えての総会でしたからこれを記念して屈指の軍事評論家でもある当センターの小川和久理事による講演が行われ、明石康顧問、有力賛助会員である伊藤組㈱の伊藤義郎社長なども久しぶりに出席されました。当センターの今後の更なる発展に向けた幸先のよい総会であったと思います。
 最後に、当センターの主たる海外事業地であるアフリカ以外の世界各地の情勢を一瞥してみますと、わが国をとりまく東アジア情勢はもちろん、ウクライナを巡る欧州情勢、さらにはスンニ派とシーア派の対立が激化する中東情勢など予断を許さない緊張状態が存在することは否定できません。しかし、グローバリゼーションと相互依存関係が深まる今日の国際社会においては、それ故にこそ危険な軍事衝突を極力回避し、安定した共存・共栄関係を築くための一層の努力が必要とされることは言うまでもないでしょう。
 以上のとおり、この数か月間の当センターの活動状況や諸般の情勢を振り返ってみての私の全般的な印象を申し上げるとすれば、不安定要因の存在も否定はできないものの、当センターのアフリカでの事業活動の更なる飛躍に向けての展望は十分に開かれているということになります。

2014.元旦
新年を迎えて:積極的平和主義とJCCP

新年を迎えて:積極的平和主義とJCCP

2014年 元旦

 新しい年が明けましたが、安倍政権の発足後1年以上を経て我が国は以前のように毎年総理が変わる政治的混迷から脱却し、激動を続ける国際情勢のなかで今後果たしていくべき役割について明確な方向性を行動で示す年を迎えたことになりそうです。 

 折から、暮れの12月17日に国家安全保障会議と閣議において「国家安全保障戦略」と題する文書が採択され、国家安全保障の基本理念として「国際協調主義に基づく積極的平和主義」が掲げられました。この文書は昨年9月に総理の指示により設立された「安全保障と防衛力に関する懇談会」が準備したものですが、実は、「積極的平和主義」という用語は同じく昨年9月の総理の国連での一般討論の演説の中でも用いられ、国際社会に向けて我が国の外交政策としてはじめて正式に表明されたのでした。安倍政権としては昨年の参議院選挙で国会での「ねじれ現象」を解消し、安定政権としての基盤を固めた段階で、満を持してこの政策を打ち出したということになるでしょう。

 他方、安倍総理が国連演説でも述べられたとおり、この考え方自体は決して目新しいものではなく、わが国は「今まで同様、むしろこれまで以上に世界の平和と安定に貢献していく」との決意を示されたに過ぎないのでした。「今まで同様」というのは、1991年はじめの湾岸戦争で米軍を中心とする多国籍軍の活動に巨額の拠出をおこなったにも拘わらず日本人は血も汗も流さず金で済ませようとする身勝手な国民と批判されたことに対する反省から、我が国が平和のために積極的に貢献する外交努力を続けてきたことを指しています。例えば、1992年に国際平和(PKO)協力法を成立させて以来積極的に国連平和維持活動に協力するとともに人道的国際救援活動も展開してきたのであり、軍縮分野でも国連の化学兵器禁止上条約(CWC)、包括的核実験禁止条約(CTBT)の締結で積極的に貢献し、国際武器取引に関する「国連軍備登録制度」の設立や小型武器規制のための「行動計画」の採択などでも主導的な役割を果たしてきたのでした。

 言うまでもなく、このような積極的な平和への貢献は幅広い国民の理解と支持なしには不可能であり、とくに欧米諸国ではNGO(非政府団体)などの市民グループによるこの分野での活動も注目されるようになっていました。こうしたことから我が国でも1996年から日本国際フォーラム(伊藤憲一理事長)による「予防外交国際研究グループ」(私が座長)の活動が開始され、その研究成果をまとめた「予防外交入門」(1999年、フォレスト出版)の中で従来の「戦争はしない、そのための軍隊も持たない、武器輸出もしない」といった「何々しない」の受動的な平和主義ではなく、積極的に「行動する」平和主義の必要性が強調されたのでした(同書11頁など)。また、軍事に関することには一切かかわらないのが美徳であるかのような「平和ボケ」の風潮から脱却する意識改革(同書88頁など)の必要性も強調され、積極的な平和主義のためには民間レベルの貢献も重要であることなどが指摘されたのでした。この研究成果を受けて1999年には日本国際フォーラムの付属機関として当センターの前身である「日本予防外交センター」が設立され、その後、2002年には東京都庁から名称も今日の「日本紛争予防センター」と改めた独立した特定非営利活動法人としての認可が得られたのでした。このように、当センターは当初から「積極的平和主義」を民間レベルで推進することを目的として設立されたこともあり、安倍政権が打ち出された新方針はわが意を得たりといったところです。

 なお、「積極的平和主義」との用語は我が国が第二次世界大戦後に置かれてきた特殊な安全保障環境のなかで享受してきた「安保ただ乗り論」的な平和主義との対比で用いられた用語であり、我が国では通用するとしても諸外国ではなかなか分かり難いことにも注意する必要があるでしょう。例えば、2001年に総合研究開発機構(NIRA)が発表した「積極的平和主義を目指して」と題する研究報告書の作成には私も少なからず関与しましたが、その過程でも諸外国の専門家たちから「積極的平和主義」をpositive pacifismとかactive pacifismと英訳するとガンジーの無抵抗主義のように理解されるとの指摘がありました。同じ手法で「消極的平和主義」を英訳するとnegative pacifismとかpassive pacifismとなり更に意味不明となってしまいます。そこでこの用語はproactive peace strategyと英訳されたのでした。昨年9月の安倍総理の国連演説でもこの用語はproactive contribution to peaceと英訳されており、これなら国際的にも理解されやすいでしょう。

 さらに、我が国では一部のマスコミなどから積極的平和主義とは集団的安全保障の名目のもとに米国と一緒に世界各地の紛争に介入しようとする「攻撃的平和主義」にほかならず、平和憲法の精神に反するとの批判もおこなわれています。現に昨年暮れに採択された「国家安全保障戦略」と同時に新しい「防衛計画の大綱」と「中期防衛力整備計画」も発表され、我が国の防衛力の一層の整備が強調されたことから、安倍政権の「積極的平和主義」に対する風当たりは決して小さくないように思われます。

 言うまでもなく、当センターは特定非営利活動法人ですから関連法令により「政治上の主義を推進し、支持し、又はこれに反対することを主たる目的」とすることは許されていません。しかし、そのことは原則論、一般論としての紛争予防とか平和構築の努力と抑止力を含む軍事力との関係について考えることまで妨げるものではありません。したがって上記の「予防外交入門」でもこの問題は詳しく取り上げられ、結論的に言えば紛争予防のための外交的、平和的努力と抑止力などを含む軍事的な努力とは二律背反関係でなく相互補完的な関係にあるのであって、軍事的な抑止力も紛争予防のために一定の役割を果たし得るとしたのでした。そして、そのような抑止力は一国独自の判断でも行使可能ではあるが、それよりも国際協調のなかで行使される方が正当性は高まるのであり、そのための国際協調の枠組みとしては北大西洋条約(NATO)、日米安保などの集団的自衛権も有用ではあるが、国連決議などによる協調的安全保障体制の方がより望ましい。しかし、「紛争を予防するのは結局は軍事力であるというところまで行ってしまうと平和を希求するという予防外交の概念の自己否定にもつながりかねない」と結論づけたのでした(同書26頁、29頁など)。

 新年のご挨拶がやや長くなりましたので結びとしますが、当センターの会員や支持者の皆様、さらにはこの小論を目にされる一般の方々が安倍政権の積極的平和主義の是非をそれぞれ個人の立場から論じられ、批判されるのも、或いは賛同されるのも自由であることには間違いないのですが、それに先立ち、以上で私が申し述べたことも十分に念頭に置いて頂くようお願い申し上げる次第です。

2013.10.8
近況ご報告、日本の国際貢献も「おもてなし」の精神で!

近況ご報告、日本の国際貢献も「おもてなし」の精神で!

2013年10月8日

このたび堂之脇理事長が会長に昇格しましたので、名称も従来の「理事長の掲示板」から「会長の掲示板」に変更しました。以下は名称変更後の堂之脇会長からの寄稿記事です。

 本年7月に会長、理事長、事務局長が改選され新体制が発足して間もないが、それにともなう若干の変化も見られるようになった。例えば、7月から8月にかけては当センターの本部事務所の事務室と会議室を入れ替える大作業が行われた。同時に不用品なども処分した結果、見違えるようにすっきりとした快適なオフィスへと様変わりした。誠に喜ばしいことである。

 他方、瀬谷理事長は石井事務局長に日常の業務を任せられるようになったので、その分講演その他の外部での活動にも専念できるようになった。9月からはTBSの関口宏氏の日曜朝の報道番組「サンデー・モーニング」に出演するなどして当センターの知名度を高めてもらう結果となっているが、これも新体制発足で期待された効果であると考えたい。
また、ホームページでも紹介されたが9月には当センターとしては初めて中学生を職場体験に受け入れた。応募してきたのは文京区立第六中学校2年生の岡本尚君で、お父上の仕事の関係で海外生活も経験したことから国連などの活動に関心があり、ウィキペディアの「紛争」の項目で当センターの存在を知ったとのことである。3日間にわたり職員やインターンの指導のもとに実務研修に丁寧に取り組み、昼食時には持参した弁当を皆と一緒に食べるなど礼儀正しく、好感度の高い中学生であった。終了後の感想文では「現地で働いている職員を後ろからフォローすることがどれだけ大切かを実感した」とか、「世界中に僕たちが考えている以上に厳しい環境の中で暮らしている人がいるという事実に・・・どれだけしっかりと目を向けられるかが・・・世界中の未来が良くなっていくことに関わってくると思いました」と記していたが、このようにしっかりとした中学生が育つわが国の将来には希望が持てると心強く思った次第である。

 NHKの評判の朝ドラ「あまちゃん」が最終回を迎えた9月末には当センターの新しい職員の結婚披露宴があり、私も招かれて新婦の上司として簡単な祝辞を述べさせてもらった。ご本人は学生時代からこの10年ほどの間に海外留学、国際機関勤務、JICAの青年協力隊などの国際活動にかかわってきた快活で有能な方である。新郎も専門分野こそ臨床医療、医療政策などと新婦とは異なるとはいえ、同じように海外留学、国際機関勤務、JICAの青年協力隊などの経験を積んでこられた方である。お二人は数年前から遠隔恋愛の関係であったが、今後は力を合わせて国際貢献に取り組んでいきたいとのことで、このような若い人たちが増えていくことは当センターにとってはもちろん、日本全体のためにも喜ばしいことである。

 披露宴では新郎、新婦のご挨拶も含めて時節がらオリンピック東京開催決定とか日本の「おもてなし」なども話題となった。よく考えてみると、グローバル化が進む今日の世界では「おもてなし」の精神こそが日本を訪れる外国人だけでなく全世界の人々に喜ばれる日本の国際貢献に他ならないのである。「おしぼり」や「カラオケ」、「ウォッシュレット」から「アニメ」、「マンガ」、「ファッション」、日本建築、日本庭園、和食にいたるまで、人びとの生活にゆとりや潤いを与えてより心地よい世界にしようとする日本人の生活の知恵が歓迎されているのである。そればかりか、争いや揉め事を暴力その他の実力によってではなく、相手の人権も尊重し、話合いによって解決するべしとのルールの確立、規範設定により世界をより棲みやすい場所にしようとする紛争再発予防、平和構築活動も「おもてなし」の精神と根底で通じている。披露宴でのご挨拶のなかで私が「世界のために役立つ日本として国際貢献を行っていくこと自体が広い意味での日本のおもてなしであります。」と述べたのはそのように考えたからであり、結論的に申し上げれば、「日本の国際貢献もおもてなしの精神で」ということになるのである。

2013.7.1
新運営体制の発足に際して

新運営体制の発足に際して

2013年7月1日

このたび堂之脇理事長が会長に昇格しましたので、名称も従来の「理事長の掲示板」から「会長の掲示板」に変更しました。以下は名称変更後の堂之脇会長からの最初の寄稿記事です。

 6月28日の当センター第37回理事会で新会長、新理事長の互選がおこなわれた結果、7月1日付をもって理事長であった私が会長に昇格し、理事兼事務局長であった瀬谷ルミ子さんが理事長に昇格しました。それに伴いこの掲示板も今後は「堂之脇理事長の掲示板」から「堂之脇会長の掲示板」へと名称を改めることにしました。
 また、瀬谷理事長がこれまで理事として兼任してきた事務局長のポストには同じく7月1日付をもって、2年以上前から当センターの在ケニア・ソマリア代表として現地で活躍してこられた石井由希子さんが就任しました。
 以上の新運営体制の発足は当センターが以前から進めてきた役員体制の刷新と世代交代の延長線上のものでもあります。2011年春の理事選任の際に長らく理事をつとめてこられた2,3の方々に引退していただいた機会に、瀬谷事務局長と同事務局長が日頃から助言を頂いていた野村総研コンサルティング事業本部の永井恒男氏の二人が新理事に選任されたのですが、二人とも30才台の若さで世代交代の第一歩が踏み出されたのでした。その1年後の昨年春には瀬谷理事・事務局長とも仕事のうえで接触が多く年代的にも近い中土井僚オーセンティックワークス㈱代表取締役社長と宮下幸子ユイット株式会社代表取締役の二人が新理事に選任され、世代交代に加えて従来は少なかった実業界からの理事の人数も増えたのでした。
 その頃からのことですが、瀬谷さんは理事長の私から運営上の危機を脱したばかりの当センターの立て直しをはかって欲しいと頼まれて事務局長を引き受け、それ以来5年以上の長期にわたり誠心誠意任務に取り組んでこられ、当センターの事業活動をアフリカを中心に着実に拡大させ、事業規模も1億円を超えるほどにまで増大させ、本部と在外代表事務所のスタッフも拡充させ、当センターへの信頼関係を取り戻すなど一応の成果をあげてこられたこともあり、当センターの今後のさらなる発展のためには運営体制(マネージメント)の改革が望ましいとの意向を表明されたのです。具体的にはご自分の後任として組織運営に優れた能力のある人材を事務局長に迎え入れ、中長期的将来を見据えて事業活動の一層の展開をはかれる体制にしてはどうかとの提案でした。私はもちろん他の理事や関係者の誰もが瀬谷さんの事務局長としてのこれまでの実績を高く評価していましたので、この瀬谷さんの意向を尊重して当センターの運営体制改革に取り組むことになり、1年ほどかけて慎重に検討を進めてきた次第です。
 申すまでもなく最大の課題は新事務局長の人選でした。公募を含め幅広く候補者となりそうな方々への打診を続けてきましたが、最終的には石井由希子在ケニア・ソマリア代表がすでに当センターの事業を熟知しているばかりでなく、瀬谷さんの後任として最適任であると判断され、また、ご本人の同意も得られたのでそのように決定したのでした。もちろん、私自身はこの2年余りの間石井さんの手堅い仕事ぶりや当センターのあり方についてのお考えなどを見聞きしてきましたから、この人選に少しも迷いはありませんでした。他方、私はそれ以前の石井さんの職歴について詳しく承知する機会はなかったのですが、たまたま私が12年ほど前に総合研究開発機構で「積極的平和主義を目指して」と題する研究プロジェクトの座長をつとめた際に同機構の研究主任として補佐してくれた福島安紀子さん(現在は青山学院大学国際交流研究センター勤務)がその近著「紛争と文化外交」のなかで2000年から2001年にかけて国連コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)のローカル・コミュニティ・オフィサーをつとめた石井さんの民族共存と和解の難しさについての体験談を詳細に紹介しているのが目にとまりました。私は石井さんが瀬谷さんと同様に10年以上も前から一貫して平和構築の仕事に情熱をもって取り組んでこられたことを大層心強く思った次第です。
 事務局長の人選に続いて文句なしに決まったのが新理事長への瀬谷さんの昇格でした。瀬谷さんご自身は事務局長の兼任を解かれた後は理事の一人として留まることで差し支えないとの立場でしたが、当センターがこの6年間でここまで立ち直ることができたのは瀬谷さんの努力のお陰であり、また、全国各地の企業、団体、学校などからの講演依頼も多い瀬谷さんは当センターの看板でもありますので、私は自分が引退して瀬谷さんに理事長を譲るべきであると考えました。もっとも、この提案を瀬谷さんに固辞されても困るので、私のことは心配しないでも会長に昇格するからとの口実も用意したのでした。いずれにしても、このようにして運営体制の改革と若返りを一段と進めることができたのです。
 最後に、空席であった会長職に私がつくことには躊躇がありました。私は明石康元会長のように知名度が高いわけでなく、また、私が会長になっても若返りにはなりません。そもそも元官僚が民間団体の会長になること自体が不適当というのが私のかねてからの立場でした。しかし、2年ほど前に引退されて顧問に就任される際に私に会長職を引き受けるように勧めてくださったのは他ならぬ明石元会長ご自身でした。さらに、私が専門としてきた軍縮分野は世界の平和と安定のための規範設定、すなわち暴力や恣意が幅をきかせるのではないルールづくり、を指向するという点で紛争予防・平和構築を目指す活動と軌を一にしています。私が10数年前に当センターの設立に関わるようになったのも国連軍縮諮問委員会の委員として、さらにはその委員会の議長としてブトロス・ブトロス・ガリ、コフィ・アナンのお二人の国連事務総長と紛争予防や平和構築の問題につき協議する機会が多かったからでした。そのようなこともあり、心を新たにして会長職をお引き受けすることにいたしました。
 以上が今回の新運営体制発足に至った経緯のあらましです。この機会に、これまで当センターの活動を支持会員、賛助会員あるいは特別会員として、またサポーターや学生サポーターも含む一般会員としてご支援くださった会員の皆様方、並びに講演会開催やご寄付などをつうじて当センターの活動に深い関心と理解、資金的援助を寄せてくださった企業、団体、地方自治体、学校等の関係者の皆様方に衷心から御礼申し上げますとともに、今後とも引き続きご指導、ご鞭撻くださるよう、宜しくお願い申し上げる次第です。


2013.2.20
JCCPの近況と「国連軍縮会議in静岡」

JCCPの近況と「国連軍縮会議in静岡」

2013年2月20日

 当センターのホームページなどですでにご存じの方も多いでしょうが、瀬谷事務局長は昨年暮れに500万円をご寄付いただいたマリンフード株式会社様(本社大阪)が本年1月末に取引先企業、商社など500名ほどを招いて開催した新春パーティーで基調講演をさせていただきました。このように瀬谷事務局長が中心となって推進している当センターの事業活動に注目してくださり、貴重なご支援とご配慮を賜ってくださっているマリンフード社の吉村直樹社長をはじめ関係者の皆様に心から感謝申し上げる次第です。それに加えて、瀬谷事務局長は同じく1月末にエイボン・プロダクツ株式会社(東京都新宿区)から「エイボン年度女性賞・大賞」の2012年度受賞者にも選ばれました。大賞の副賞として当センターにも100万円が寄贈されました。これも大層光栄なことで、厚く御礼申し上げる次第です。
 いずれの行事も当センターの事業活動に対して日本国内の関心を高め、理解を深めていただけるとの意味で、当センターの定款が掲げる「紛争の発生予防、拡大防止および再発防止のために、民間分野における日本の貢献を強化し、もって世界平和と国際協力の推進に寄与する」との当センターの活動目的に完全に合致する行事であり、誠に有難いことでした。
 こうしたことから、当センターは幸先のよい新年を迎えることができました。さらに、今年は干支で言えば癸巳(みずのと・み)の年ですが、巳は冬眠から覚めた蛇が地上に這い出す形を表し、躍進の年ともされています。本年が当センターが脱皮して前進する輝かしい年となることを期待したく思います。
 折から、当センターは今月から来月にかけての理事会・総会、さらには5月の連休明けの理事会・総会で事業活動と収支計算の立案や取りまとめをするべき時期にさしかかっています。したがって、例年ならこの時期に掲示版でご報告すべきことは幾つもあるのですが、実は、これと並行して1年ほど前から検討を進めてきた当センターのマネージメント(経営体制)改革作業も大詰めを迎えており、この掲示板でのご報告はもう少し待っていただきたいというのが本音のところです。

 閑話休題。そこで、何時ものことながら、私の本職ともいうべき軍縮・軍備管理の話を少しだけさせていただきます。紛争予防とはあまり関係がない話のように思われるかも知れませんが、軍縮・軍備管理は武力紛争を減らし、武力紛争から生ずる被害を減らすことを目的としており、紛争予防と無関係ではないのです。
 1月末には静岡市の日本平ホテルで「第24回国連軍縮会議in静岡」が開催され、これに私も出席してきました。第24回というのは日本での開催回数のことで、この会議は1989年以来毎年一度、日本政府(外務省)からの国連への拠出金、地方都市の協賛などにより海外からも多数の軍縮専門家を招いて開催されてきています。
 この会議で毎回必ず取り上げられるのが核軍縮の諸問題ですが、今回は来月開催される「核兵器の人道上の影響に関するオスロ会議」が大きな話題となりました。仮に地域的核戦争で100発程度の広島型原爆が使用されたとした場合でも、何千万の人々が即死するだけでなく、地球規模で気象が混乱し10億人ほどの人々が餓死するだろうとの核兵器防止国際医師会(IPPNW)の最近の調査結果なども発表されました。しかし、再選後のオバマ政権の核軍縮政策が未だ明確でないことから全体的にはやや盛り上がりに欠ける会議となったのは残念なことでした。
 他方、同じく来月に国連のATT(武器貿易条約)締結交渉が開催されることから小型武器問題も議題となり、キース・クラウス氏(ジュネーブのSmall Arms Survey)などこの分野の私の旧知の友人たちとも再会できたのは嬉しいことでした。
 実は、私はこれまで24回開催されたこの会議には2,3の例外を除きほぼ毎回出席してきました。1989年と言えば平成元年で、11月にはベルリンの壁が崩壊して冷戦が終了した年でした。第一回京都軍縮会議が開催されたのはその年の春でしたが、私がジュネーブ軍縮代表部代表大使に任命される前でもあったのでこれには出席できませんでした。平成になってから今年で25年ですから、本年の静岡会議は第25回目となるべきところでしたが、毎年8月頃に開催されるこの会議が昨年は静岡市側の「富士山がよく見える季節に」との要望で本年1月末に延期された結果、今回で第24回目となったのです。お蔭で3日間の会議開催期間は晴天にめぐまれ、富士山も絶景で外国からの参加者たちに大層喜んでいただけました。
 また、それ以上に田辺信宏市長の強い要望で静岡市での開催となった理由は、戦国動乱の世を鎮め、「軍縮革命」を実現したとされる徳川家康将軍の没後400年を2015年に控えているからとのことでした。会議参加者のための歓迎レセプションでは戦国時代の鉄砲弾薬製造業者が花火製造業者に職業替えさせられた伝統を継承した花火ショーも行われましたし、会議の終了後にはすぐ近くの久能山東照宮の見学も日程に組み込まれました。
 このように国連軍縮会議がわが国で毎年開かれてきたのは国内での軍縮問題への理解を深めると同時に、諸外国からの参加する方々にもわが国への理解を深めてもらうためでもあります。しかし、開催するためには協賛する地方都市が名乗り出る必要があり、2~3千万円の経費負担を覚悟で協賛してくれる都市を探すのに関係者は毎回苦労させられるとのことです。それでも24回も続いてきたことは特筆に値するでしょう。軍縮を外交の主要な柱の一つとするわが国ならではのことと思う次第です。

2012.11.2
米大統領選挙とCTBT

米大統領選挙とCTBT

2012年11月2日

 以下は11月1日付の日本軍縮学会ニュースレター(電子版)第12号に巻頭言として掲載された私の寄稿記事です。

 アメリカの大統領選挙の結果が核軍縮の進展を大きく左右するようになったのは20年ほど前からのことである。1993年に民主党のクリントン政権が発足するとそれまで反対していたジュネーブ軍縮会議でのCTBT(包括的核実験禁止)条約交渉の開始に同意し、1995年にはNPT条約無期限延長を確保し、1996年にはCTBT条約調印にまで漕ぎ着けて大統領再選も果たした。ところが、1998年のインド、パキスタン両国の核実験で事態は一変し、同年の中間選挙では民主党が大敗、翌年にはCTBT条約の批准法案が米上院で否決された。2000年の選挙では共和党のブッシュ政権が誕生し、核軍縮は停滞を余儀なくされた。しかし、2008年の選挙でオバマ民主党政権が発足するや、2009年4月の「核なき世界」を目指すプラハ演説、2010年4月の米露新START条約調印などと核軍縮への機運が復活した。CTBTについては、先ずは優先度の高い新START条約の上院による批准を確保したうえで、今回の大統領選挙の結果を待つこととなった。それでも、昨今の米議会での与野党対立の厳しさから、仮にオバマ大統領が再選されるとしてもCTBTの早期批准は決して容易ではない状況である。
 他方、CTBTが批准、発効を待たずにその運用を通じて存在感を強めていることが注目に値しよう。1996年の調印直後からCTBT機関準備委員会が設立されて条約遵守を検証するための国際監視制度(IMS)の整備作業が開始されたが、321カ所に予定される監視観測所のうち80%以上が完成済みである。これらの観測所で集められる情報データにより北朝鮮での核実験はもとより、世界中のどこで行われる核実験でも探知できることが実証され、条約は事実上の運用状態に入っている。また、観測所で日々収集される膨大なデータはCTBT機関準備事務局のネットワークを通じて多くの加盟国や関係機関に提供されており、地震や津浪の観測や予知はもとより、福島原発事故などで放出される放射性核種などの観測にも役立っている。このように未だ発効していないのに現実に世界規模で運営され、有用な情報提供にも役立っている軍縮条約は他に類例がない。
 CTBTは日本が唯一の核兵器被爆国としてその締結に長年力を注いできた条約で、例えば地下核実験も地震探知技術などを活用すれば検証可能であるとして1976年にジュネーブの軍縮会議に科学専門家グループを立ち上げた。私が1990年前後に軍縮会議の日本政府代表として交渉促進に尽力した当時は気象庁元長官の末広重二氏がその科学専門家グループの日本代表をつとめておられた。核廃絶に向けての道のりは遠いにせよ、CTBTの実績は日本のような非核兵器国でも大きな貢献ができることを証明している。

2012.10.10
入山映さんのご逝去を惜しんで

入山映さんのご逝去を惜しんで

2012年10月10日 

 少し遅くなりましたが、去る8月5日に突然逝去された入山映当センター理事の長年にわたる当センターへの多大なご支援に心からの感謝の言葉を捧げさせて頂きます。
 当センターのそもそもの発端は1996年はじめに当時笹川平和財団理事長であられた入山さんが日本国際フォーラムの伊藤憲一理事長に国連などで関心が高まっている「予防外交」問題を日本としても真剣に研究してはどうかと提案され、同財団の助成金により3年間にわたり予防外交国際研究グループの研究活動が実施されたことにありました。当時国連事務総長の軍縮諮問委員会議長及び国連小型武器問題政府専門家パネル議長をつとめていた私がこの国際研究グループの座長に選ばれたことから、私と入山さんのお付き合いが始まったのでした。
 この研究グループがまとめた報告書の結論は、冷戦後アフリカをはじめとする世界各地で頻発する国内紛争、地域紛争を予防する活動においては国家や国際機関だけでなく市民社会の貢献が注目されるようになっており、日本でもそのような民間の貢献に力を入れるべきであるとするものでした。この提言を受けて日本国際フォーラムの伊藤理事長は自ら行動を起こすほかはないと考え、当時の小渕恵三総理や経団連傘下の企業などに働きかけ、その財政的支援のもとに1999年に「日本予防外交センター」を立ち上げたのでした。しかし、真に民間レベルでの貢献を推進しようとするのであれば政府の財政的支援に依存する団体であることは好ましくないので、純然たる民間の特定非営利活動法人としての認可を東京都庁に申請し、2002年に名称も新しく「日本紛争予防センター」として認可されたのでした。こうした当センターの誕生から成長までの数年間、入山笹川平和財団理事長は適切な助言や事業助成金などにより力強く支援してくださったのでした。
 その後、2005年に入山さんは笹川平和財団理事長を退任され、立教大学大学院教授などとして活躍を続けておられましたが、以上の経緯もあったので2007年春から当センターに理事に就任して頂き、理事会、総会などの機会に直接ご助言、ご指導を頂くようになったのでした。
 入山さんは明るくて快活なお人柄で、お酒が入ったりすると談論風発の楽しい方でした。他方、この10年ほど病魔と戦っておられたのに亡くなられる直前までそのようなことはおくびにも出されない気丈な方でもありました。また、世間に横行する不義や不正を許さない正義感の強い方で、縦割り行政の非能率性、役人の「天下り」や「税金の無駄遣い」体質などを容赦なく批判しておられました。絶筆となった本年5月幻冬舎出版のご著書「市民社会があぶない」は存分にその面目を発揮していると思います。
 振り返ってみると、2008年には天下り「公益」法人などによる税金の無駄使いを是正する行政改革の一環として公益法人制度改革関連法案が成立し、2010年に発足した鳩山内閣では「新しい公共」宣言も出されるなどして拍手喝采で迎えられました。しかし、その後の新制度の導入状況は入山さんのご著書によれば制度の改善どころか「官主導の改悪」となっているとのことで、新制度に向けての作業は早急にいったん停止して再検討するべきであるとも主張しておられます。特に「公益」認定のための「収支相償」、「遊休財産保有制限」、「公益事業比率」の3条件が「3悪人」である、としておられます。
 その関連では、本年春に内閣府から数年前にくらべると2、3倍もある4百数十ページの大部の「特定非営利活動法人手引書」がネット上に公開されましたが、入山さんがこれをご覧になったとしたら、煩雑で難解な文書によって「民」を拘束し、「官主導」を維持、強化する試みであると批判されたことでしょう。同じく本年4月からは「認定」特定非営利活動法人の公益性認定規準としてパブリック・サポート・テストと呼ばれる基準が導入され、少なくとも年間3000円の寄付を100人から集めることが求められるようになりましたが、入山さんはご著書でこれについても「十分条件としてならば格別、必要条件だと考えるのはナンセンス」と手厳しい批判を加えておられます。
 「市民社会があぶない」を読ませて頂いて思ったことは、日本では民間公益法人のあり方について入山さんほどに造詣が深く熱心に研究された方はいないだろうということです。それだけに数々の貴重なご指摘は誰しもがこれを真摯に受け止めるべきであると思います。ご著書は問題提起に終わった感もあるのですが、それはご自身で解決策を見出すお積りであったからでしょう。道半ばでの突然のご逝去は誠に残念なことです。今となっては、後に残された者たちがご遺志を継いで精一杯の努力をするほかありません。
 末筆となりましたが、入山さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。

2012.8.16
軍縮問題の近況(CTBTとATT)

軍縮問題の近況(CTBTとATT)

2012年8月16日

 アメリカ大統領選挙の年で大きな進展は期待できないことから軍縮問題をフォローするのを怠けていたが、たまたま、8月6日には広島・長崎原爆祈念行事の関連で来日したCTBT(包括的核実験禁止条約)機関準備委員会のトート事務局長にお会いし、翌7日には先月ニューヨークの国連本部で開催されたATT(武器貿易条約)締結交渉会議についてのオックスファム・ジャパンの夏木碧さんの報告会に出席する機会があった。

CTBTの近況

 CTBTは地下核実験以外を禁止した1963年の部分核停条約以降の核軍縮の最優先的な課題として長年にわたり日本がその締結に向けて大きな力を注いできた条約である。地下核実験も地震探知技術などを活用すれば検証可能であるとして70年代中頃からジュネーブの軍縮会議に科学専門家グループを立ち上げるなどしてきた。私も90年代のはじめにジュネーブ軍縮会議の日本政府代表として交渉促進のために尽力したが、当時若手のハンガリー政府代表であったトート氏とはその頃からのお付き合いである。
 条約は96年の国連総会で採択され署名、批准のために開放されたが、厳しい発効要件のために未だに発効の目途は立っていない。しかし、わが国が音頭をとり99年以来今日までに9回の発効促進会議を開催するなどした結果、発効のために批准が不可欠とされる44国のうち未批准国の数は16国から8国にまで減少した。未批准のアメリカの動向が今後の決め手で、4年前のオバマ政権の登場により状況は改善されたが、本年11月の大統領選挙と上院議員3分の1の改選結果待ちといったところである。
 それにも拘わらず、条約の発効に間に合わせて条約遵守を検証するための国際監視制度(IMS)を整備するためにCTBT機関準備委員会が設立され、今日までに世界中で321カ所に予定される監視観測所のうち80%以上が完成している。これらの観測所で集められる情報データは北朝鮮での核実験はもとより、世界中のどこで行われる核実験であってもほぼ完全に探知できることが実証済みである。また、これらの観測所で日々収集される膨大なデータはCTBT機関準備事務局のネットワークを通じて多くの加盟国や関係機関に提供されており、地震や津浪の観測や予知はもとより、福島原発事故などで放出される放射性核種などの観測にも役立つことも実証されつつある。
 このように未だ発効していないのに現実に世界規模で運営され、有用な情報提供にも役立っている軍縮条約はきわめて例外的なケースであるが、これはわが国が長年にわたって続けてきた核軍縮分野における努力の最大の成功例と言ってさしつかえないであろう。トート事務局長も、この条約は未発効とはいえ違反の核実験は必ず探知できる体制が整っており、常識的に判断するかぎりいかなる国もこの条約に違反することは考え難いとの意味で、オタワの対人地雷禁止条約と同様に未批准国、未署名国を含めほぼすべての諸国により遵守される条約となるに至ったと述べていた。
 CTBT機関準備委員会の予算は加盟諸国によって分担されており、発足以来日本の分担率は20%ほどで最大の状態が続いてきたが、トート事務局長から最近では未批准国のアメリカが拠出額では第一位となっていることを指摘されて驚いた。迂闊にして知らなかったが、核軍縮推進を標榜するオバマ政権が登場した結果ということであろう。

ATT国連会議

 他方、ATT(武器貿易条約)構想はここ数年来通常兵器軍縮の最重要課題とされ、一連の政府専門家会合、準備委員会会合を経て先月にはニューヨークで4週間にわたる条約締結交渉のための国連会議が開催された。これらの会議の議長をつとめたのがアルゼンチンのガルシア・モリタン大使で、同大使も年齢的にはかなり年下ではあるが私がジュネーブ軍縮会議代表当時からの旧知の友人である。
 核兵器のお蔭で冷戦時代には忘れられていた通常兵器軍縮に関心が戻る契機となったのは1990年のイラクによるクウェート侵攻であった。それに先立つ80年代のイラン・イラク戦争当時中東諸国に輸出された戦車、戦闘機などの通常兵器の85%以上がP5諸国(国連安保理の常任理事国)からであったことへの反省から、P5諸国による武器貿易規制の話合いも試みられたが成果は乏しかった。そこで、日本やEC(現在のEU)諸国の提案により1992年に国連に武器取引を登録する国連軍備登録制度が設立された。戦車、戦闘機などの7種の大型通常兵器について毎年の輸出入の金額でなく数量を登録する制度で、今日では大多数の国連加盟国がこれに応じている。
 ところが、この登録制度が発足して間もなく、今度はアフリカや旧ユーゴースラビアなど世界各地で頻発し厖大な犠牲者を出す地域紛争、国内紛争で使用される小型武器の規制が問題とされるようになった。国連での一連の政府専門家会合、準備委員会を経て2001年には小型武器国際会議が開催され、「行動計画」が全会一致で採択された。この国連による取組で主導的な役割を果たしたのが日本であった。偶然のことながら、私は国連の軍備登録制度と小型武器問題への取組の双方に少なからず関わらせて頂いた。
 ATT構想が本格化したのはその後のことで、従来から一部のNGOの間で小型武器に関する単なる「行動計画」ではなく拘束力のある取引規制条約が必要との議論は存在したが、それに加えて、大型通常兵器についても国連登録制度はあくまでも信頼醸成措置であり、本来の目的は野放し状態の武器貿易の規制であるから、拘束力のある条約締結が必要との論議が高まってきた。このため、2006年以来国連において英国が主導し、日本を含む7国が共同提案国となって、ATT締結に向けての動きを推進してきた。
 武器貿易の規制に関してはP5などの主要武器輸出国にしてみればあまり厳しい規制は欲しないところであり、途上国などの多くの輸入国側としても自衛のための武器輸入の権利が制限されることは欲しないところである。しかし、他方で、国際的な平和と安全だけでなく基本的人権などの「人間の安全保障」の見地からも武器貿易は厳しく規制すべきであるとの議論が強く存在し、これに説得力があることも事実である。加えて、完成武器だけでなく、弾薬はもちろん、部品や技術の移転も規制の対象としないのでは不十分との議論にも強い説得力がある。
 このように錯綜した対立軸を抱える問題であるので、詳細は省略するが規制の対象を国連軍備登録制度の7種の武器と2001年の「行動計画」の小型武器とすべきであるとの点では基本的な合意は存在するものの、規制の中身についての合意形成は決して容易ではなかった。そのため、今回の国連会議の会期は2001年の国連小型武器会議の2週間に対し4週間とされた。また、会議開催までにいくつかの議長の参考ペーパーなどが作成、配布されてきたものの、正式には交渉の基礎となる条約案は存在しない状態での会議開催となった。しかも、冒頭からパレスチナの参加問題で開会が2日ほど遅れるなど、波乱と困難に満ちた会議となるに至った。
 夏木さんの報告やオーエン・グリーン氏その他の論評、外務省関係者の話などから総合して判断すると、全体的な流れとしては米、中、ロなど条約案が採択されても直ぐには批准しそうもない主要国が少なくとも反対にまわらない案文を作成し、そうすることにより、シリア、イラン、北朝鮮、ベネズエラ、エジプトなどの強硬反対論諸国を抑え込むことに力が注がれたようである。このため条約案には妥協的な文言(例、”as appropriate”, “shall consider taking feasible measures” 等)が多く採用され、内容的には薄められる結果となった。2001年の小型武器国際会議でも見慣れた風景の再現であった。それでも、モリタン議長や日本も含む議長支持諸国の精力的な努力の結果、最終的な議長案が作成、配布されたのは会期終了前日の7月26日のことであった。
 翌27日の最終日にアメリカの代表団は条約案の提出が遅すぎたので本国政府に請訓して検討する時間がないことを理由に交渉の中断を提案し、他の多くの諸国もこれにならい、条約案は採択されないまま会議は閉会された。アメリカの代表団は条約案に重大な問題(core objection)があるのではなく、時間が足らないので仕切り直しが必要と説明したようである。今後は本年秋の国連総会でどのような決議が採択されるかにもよるが、常識的に考えればアメリカの大統領選挙の結果をふまえて再度の国連会議開催を目指すということになるであろう。
 いずれにしても、条約採択への道のりは容易ではないとされてきたATT構想が、今回の国連会議の結果、薄められて内容的に乏しいとされながらも武器貿易に関する包括的な行動規範とも言うべき条約案の作成にまで漕ぎ着けたことの意義は決して小さくないように思われる。

2012.4.24
JCCPの近況ご報告

JCCPの近況ご報告

2012年4月24日

 当センターはこの4月から第12事業年度を迎えましたが、NPO法人として東京都庁から認可されたのは10年前の2月28日でしたから、実質的には今年で10周年を迎えたばかりのところです。また、メルマガ3月号の「ご挨拶」で瀬谷事務局長が述べたように、同事務局長が就任したのは5年前の4月でしたから、当センターのNPO人生?の半分を同事務局長が一緒に歩んでくれたことになります。
 他方、私が副会長から理事長に横滑りしたのは6年前の2月で、当センターがずさんな組織管理、資金管理で破綻状態に陥った後のことでした。組織としての解散以外はあり得ないと判断されたので在外代表事務所を順次閉鎖し、本部職員も1,2名のアルバイトを除いて全員解雇したのです。ところが、その時点で開催された第10回総会で当センターを解散するのは惜しい、徹底的な節約とスリム化をはかってでも本来の設立趣旨に立ち戻って再出発すべきであるとの意見が大勢を占め、大幅な組織改革、定款改正が断行されました。そこで、私は再出発の成否は事務局長の人選にかかっていると考え、意志・能力を備えた優秀な人材の確保に全力を尽くしました。幸いにして瀬谷事務局長を迎えることができた経緯はこの「掲示板」の昨年10月3日の記事で詳しく述べたとおりです。
 破綻状態の団体からの新規事業への資金的助成申請は受理できないとする外務省、JICA(国際協力機構)などのドナー側の立場もあり、当センターの再出発の道のりは決して容易なものではありませんでした。しかし、瀬谷事務局長の熱意と精力的な努力のおかげで海外事業活動も徐々に再開されるようになり、活気が戻ってきました。事業地も従来のアジア地域に代わってケニア、南スーダン、ソマリアなどのアフリカ諸国を中心に広がり、事業規模もこの5年間に年間1億円を超える規模にまで拡大してきました。

 この1年ほどに限ってみても当センターの着実な成長ぶりを示す出来事がいくつかありました。第一は理事などの役員体制の刷新・強化で、1年前の総会による永井恒男氏と瀬谷事務局長の新理事選任に続き本年3月の総会でも中土井僚氏と宮下幸子氏が新理事に選任され、世代交代と理事への財界人の参加が一段と進みました。第二に、事務局の職員スタッフも格段と充実・強化されました。個人名をあげることはしませんが、本部では事業統括、経理担当、総務担当にそれぞれ有能な人材が配備され6年前と比べて今昔の感があります。加えて、在外代表やその邦人補佐、現地職員にも優秀な人材が揃ってきました。
 第三に、昨年10月に出版された瀬谷事務局長の著書「職業は武装解除」が大きな注目を浴び、12月には同事務局長が日経ウーマン・オブ・ザ・イヤー2012準大賞を受賞しました。そのお蔭で当センターの活動がマスコミなどで頻繁に取り上げられるようになりました。最後に、組織としての信頼性、透明性の向上もはかられました。当センターは国税庁から認定NPO法人として認定されて間もないのですが、本年2月には国際協力NGOセンター(JANIC)の立会人の立会いのもとアカウンタビリティ・セルフチェックを実施し、組織としての責任体制、事業運営体制、資金管理体制などにつき信頼性、透明性が確保されているとのお墨付きをいただきました。
 以上からも明らかなように、当センターは6年前の「本来の設立趣旨に立ち戻って再出発する」との決意をしっかりと行動に移しつつあります。「本来の設立趣旨」とは定款第3条「目的」が述べているとおり、「紛争の発生予防、拡大防止および再発防止(以下「紛争予防」と総称する)のために、民間分野における日本の貢献を強化し、もって世界平和と国際協力の推進に寄与する」ことです。このように紛争予防、平和構築に特化した目的を定款に掲げるNPO法人はわが国では当センター以外に存在しないと思います。

 この目的に向けての具体的な事業活動には国内と海外の二種類があります。国内では紛争予防・平和構築分野への関心を高め、参加を促すための啓発、教育、訓練活動などであり、瀬谷事務局長の著書出版などもこの趣旨に沿ったものです。海外では日本の民間団体が紛争予防・平和構築分野でどのような貢献が可能であるかを率先垂範して実証してみせる活動であり、当センターはこの趣旨に沿って海外事業活動を展開してきています。
 他方、この数年間は試行錯誤のなかでの事業活動の再出発、組織体制の整備に追われてきたので中長期的な展望をふまえた活動目標、活動方針の策定にまでは手が回りませんでした。しかし、昨年あたりからその努力も開始されています。瀬谷事務局長がメルマガ4月号の「ご挨拶」で述べたように、今までの組織全体の成果と教訓を振り返り今後5年、10年、世界の紛争に対してどのような活動をしていくべきかを改めて見直す作業です。

 事業活動を今後どのような中長期的な展望とビジョンのもとに、企業との連携の可能性なども含めてどのような分野を中心に、どのような方法で推進していくかを検討する必要があります。もちろん、大きく変動し不確定要素もある世界情勢のなかで中長期的な目標、方針の検討は難しい作業であり、見直しや軌道修正の余地を残す必要もあるでしょう。さらに、そのような目標、方針を策定するにしても、組織の運営管理体制が職員たちの持てる能力を十分に効率的に発揮できるようになっていなければ絵に描いた餅に終わってしまいますから、運営管理体制の強化、改善にも力を入れる必要があるでしょう。
 このように、道は未だ半ばであり、今後当センターが国際的にも一目置かれるようなNGOとして成長していくために克服すべき課題は多々あるように思われます。しかし、瀬谷事務局長をはじめ現在の本部と在外の職員の方々は誰もが当センターの使命や事業活動に対して強い情熱と高い志を抱いており、それぞれの分野ですぐれた能力を有しておられるので、私は当センターの前途には成功が約束されているものと確信しています。

2012.1.12
軍縮問題はどう理解するべきか?

軍縮問題はどう理解するべきか?

2012年1月12日

以下は少し長文となりますが、私が1月11日にポトマック・クラブで行った講演の概要です。ポトマック・クラブとは官民を問わず1970年代、80年代にワシントンで勤務した人たちを中心とする懇親、勉強のための集まりです。

前置き
私は在米大使館に73年(昭和48年)7月はじめから76年1月末まで総務参事官として勤務した。ワシントンは私にとり懐かしい思い出の地である。約2年半の在勤中の主な出来事は74年8月のニクソン大統領辞任、10月の中東戦争と石油危機、11月のフォード大統領訪日と田中総理辞任、75年9月から10月にかけての2週間にわたる天皇皇后両陛下御訪米などであった。
その10年ほど後、ジュネーブ軍縮会議代表大使に任命されたのをきっかけに私は軍縮関係の仕事に10数年かかわることになった。ジュネーブの後東京でも軍縮担当の特命大使をつとめ、さらに国連事務総長の軍縮諮問委員会の委員を数年間続けることになり、そのうち2年間はこの軍縮諮問委員会の議長をつとめた。
そうした軍縮関係の仕事を続けながらメキシコ大使を2年ほどつとめ、95年に外務省を退官した。しかし、退官後も外務省参与に任命されて10年ほど国連の軍縮関係の仕事をお手伝いした。これらの体験を踏まえてお話しする。

核軍縮と日本の貢献

核実験全面禁止条約(CTBT)で日本が果たした主導的役割
私がジュネーブの軍縮会議の日本代表大使に任命されたのは89年(平成元年)9月であったが、その年の11月にはベルリンの壁が崩壊して冷戦時代に幕が降り、世界的に平和と軍縮への期待が高まった。この期待に応えて米ソ間、そしてソ連崩壊後は米ロ間で核兵器削減の交渉が進められ、大幅な核兵器削減が進んできたことは事実である。しかし、他の核兵器を持たない諸国は要望を表明することはできてもこの交渉に直接参加することはできなかった。
それだけに、非核兵器国も含めた多数国間の軍縮交渉の場であるジュネーブの軍縮会議では冷戦時代から長年の懸案であったCTBT(核実験全面停止条約)早期締結への期待が否応なしに高まった。何故核実験禁止が重要課題であったかというと、冷戦開始直後から米ソ両国は核実験競争を続けていて、これが続くかぎり核兵器は進化するばかりで核軍縮などは望むべくもなかったからである。また、核実験を禁止すれば新しい核兵器国が出現する可能性が減ると考えられたからである。
核実験は当初は空中、水中などで実施されたが、54年の第五福竜丸事件などで放射能被害の恐ろしさが大問題となり、米ソなどの核兵器国もこれを反省して部分核実験停止条約を締結し、地下核実験以外は禁止されるにいたった。その結果CTBT(核実験全面禁止条約)締結が国際社会の重要課題となったのである。言うまでもなく、唯一の核被爆国であるわが国はこの核実験禁止問題で主導的な役割を演じた。
たとえば、空中、水中の核実験と異なり地下核実験の探知は難しいので、検証もできないCTBTは締結しても意味がないと言われたのであるが、地震大国の日本は地震波の探知能力が高く、この技術が検証に役立つとして80年頃からジュネーブの軍縮会議に気象庁の地震探知専門家などを中心とする専門家グループの会合を発足させた。
また、私がジュネーブに着任して一年足らずの90年7月には日本の努力により軍縮会議でも7年ぶりに核実験禁止問題が正規の議題として採択され、その討議の議長を私がつとめることとなった。これは、軍縮大使となった私が89年10月と90年5月にジュネーブからワシントンに出張して、軍縮会議は軍縮条約締結交渉の場にちがいないが、条約締結交渉ではなく実質問題の話合いだけを行うとの条件でこの問題を議題として採択してはどうかと働きかけ、米政府関係者の間にはそれでも条約交渉に引き込まれる恐れのある、滑りやすい「スリッパリー・ロード」であるとして反対する声もあったが、友好国日本の軍縮大使がそう言うならと同意してくれた結果であった。

ネバダ核爆発実験場の視察

こうした核実験全面禁止に向けての動き、とくにそれを主導する日本の動きに米国の核兵器研究開発関係者たちは危機感を抱いたようで、私はその主管官庁である米連邦政府エネルギー省の招待で90年10月にネバダ核爆発実験場を視察する機会を与えられた。核実験の必要性、有用性を理解してもらいたく思ったのであろう。日本人では私と私に同行してくれた軍縮代表部員一人以外にこのネバダの核爆発実験場の視察を許された人は前にも後にもいないはずである。
米エネルギー省の傘下で核兵器の開発を担当しているのはニュー・メキシコ州のロス・アラモス研究所とサンフランシスコ郊外のローレンス・リバモア研究所の二つで、前者はウラニウム核兵器、後者はプルトニウム核兵器の開発を担当してきた。開発された核兵器の核爆発実験場はその中間のネバダ州にある。これら三カ所を米エネルギー省の特別機などを利用して4泊5日の日程で訪問し集中的なブリーフィングを受けたのである。圧巻はネバダの核爆発実験場であった。意外なことに実験場はカジノで有名なラスベガスから車で僅か2時間足らずのところであった。それ以外の移動はすべて航空機であったが、この実験場への往復だけは車による移動で、前の晩にラスベガスに一泊して街の雰囲気を短時間ではあったが楽しませてもらい、翌日一日がかりで視察させてもらった。
よく知られているとおり、ネバダ州は雨の少ない砂漠地帯である。この砂漠で地下核爆発実験を行うと爆心では100万度以上と言われる爆発であっても回りの砂が融けて全体がガラス玉のようになり放射能もすべて中に閉じ込めてしまう。時間が経過すると冷却し、地表は直径何百メートルかの円形に陥没する。こうしてできた月の「あばた」のような円形の陥没が見渡すかぎり何十、何百と広がる景観は実に異様であった。
この視察旅行で米側核実験関係者たちが私たち一行に訴えようとしたのは、核実験は核兵器の進化のためだけでなく、その安全性を高め、不要な核兵器を廃棄するためにも必要であり核軍縮にも役立つということであった。また、テストもしない核兵器を米軍に納入するのはフライト・テストもしない戦闘機を納入するようなもので無謀極まりない話とのことであった。さらに、核実験を禁止してしまうと約1万人の専門家たちは職を失い四散してしまうので蓄積された核実験の知識も失われ、それを将来再構築するのは容易ではないとのことであった。
冷戦終了の頃までに米国が行った核実験はすでに1000回を超えており、ソ連も700回以上、英国は40回余り、フランスは200回程度、中国は40回足らずであった。1000回以上も実験をした米側関係者の説明では、核爆発は物理的には知り尽くされた知識であるが、同じ分量の材料を使った爆発でもその都度爆発の仕方、強度などに差があり分からないことが多すぎるので、秒速何万分の一の超高速カメラなどによる分析を続ける必要があるとのことであった。また、核兵器が何年ぐらいで劣化して使えなくなるかも実験によってのみ知り得るとのことであった。
さらに、大陸間弾道弾の弾頭に搭載して目的地で確実に爆発させるためには小型化するだけでなく、大気圏から飛び出す際、再突入する際の重力や空気摩擦による高熱に耐え、また、飛翔中の振動にも耐える必要があり、その上で目的地で確実に爆発する必要がある。目的地と言っても上空何百メートルかに達した時点で爆発することが求められる。(広島に案内された著明な外国人が「さぞかし大きな穴があいたことでしょう」と述べたとの笑えない笑い話もある。)こうした状況をシミュレーションによって作り出し、実験を繰り返す必要があるとのことであった。
40回足らずの中国にくらべれば1000回以上という数多くの実験にもかかわらず実験を続ける必要があるとする米専門家たちの説明を聞いていると、彼らは何回実験を繰り返してもこれで十分、満足という状態に達することはあり得ないと思われた。核実験の必要性を訴えたかったのであろうが、核実験を禁止すれば早晩使えなくなるような核兵器であるならば、早く実験を禁止した方が世界平和に役立つのではないかとの思いをさせられる結果となった。

核軍縮の現状をどう考えるか

その後の経過を駆け足で振り返ってみると、米側関係者が懸念したとおり、国際世論の圧力が高まりCTBT締結のための本格的な交渉がジュネーブの軍縮会議で開始された。難交渉の末、CTBTは96年に締結され署名・調印のために開放された。その間に米国の核実験関係者の間では地下核実験を行わなくでもコンピューターによるシミュレーションとか、臨界核実験などにより核兵器の安全性や信頼性は維持できるとの結論が得られたとのことであった。
こうして締結されたCTBTをクリントン米大統領は「軍備管理の歴史上もっとも多くの時間と労力を費やして勝ち取ることができた条約」であるとして率先署名した。ところが、甚だ残念なことには98年5月にインド、パキスタンによる核実験が実施され、同年11月のアメリカの中間選挙で共和党が圧勝し、翌99年には米上院がCTBT批准案を否決してしまったのである。続いて2001年に登場した共和党のブッシュ政権がCTBTはもちろん、核軍縮に対しても消極的姿勢に終始したことは周知のとおりである。
その8年後に選出された民主党のオバマ大統領は2009年4月にプラハで「核なき世界」に向けての演舌を行い、核軍縮の動きが一挙に活気を取り戻した。しかし、それもつかの間で、2010年の中間選挙で再び共和党が優勢となった結果、アメリカによるCTBT批准のめどは今日にいたるも立っていない。
その間、北朝鮮による2006年と2009年の核実験、テポドンの日本を超えての西太平洋到達などがあり、わが国でも「核なき世界」などは所詮は夢物語で、核軍縮の進展に期待することはできない。北朝鮮の核兵器にどのように対抗するかを真剣に検討すべきである。アメリカの「核の傘」の信頼性にも問題があり我が国自身が核兵器を保有する可能性も検討すべきではないか、といった極論も散見されるようになった。
しかし、北朝鮮による核実験、テポドンの日本上空通過などにより世界の軍事情勢に根本的な変化が生じたように考えるのは間違いである。アメリカやロシアは何百回もの核実験をした上で命中精度の高い大陸間弾道弾に搭載した核兵器を何千発も保有しているから世界を破滅させる能力のある核兵器国であるが、北朝鮮はわずか数回の実験を行っただけで、保有している核弾頭も10発前後に過ぎないとされる。先ほどのネバダの核爆発実験場の話からもお分かりのとおり、ミサイルに搭載できるほどまで小型化することに成功したのかどうか、成功したとしても命中精度はどうかといったことを考えると、北朝鮮は「核兵器国」と言える国などではあり得ない。まかり間違って北朝鮮の核弾頭が韓国や日本の領域内で暴発するようなことでもあれば被害は甚大となりかねないが、これは世界的核戦争の勃発というよりも単発的なテロ事件のようなものであろう。これを阻止するためにはわが国自身が防衛能力を一層高めると同時に、アメリカの圧倒的な軍事力による抑止力(核抑止力とはかぎらない)が十分に機能するように日米同盟関係を堅持する以外に効果的な対応策などは考えられないであろう。
21世紀の今日ではもはや米露両国とも相手国に核兵器を使うことは考えておらず、核兵器削減のために努力している。英、仏、中といった他の核兵器国も核軍縮には異存がなく、インド、パキスタンなどの事実上の核兵器国も攻撃されなければ核を先に使うことはないとしている。要するに今日では核兵器は余りにも破壊力が大きい非人道的な兵器であるが故に簡単には使えない兵器であることが広く認識されているのである。核兵器を最も使う可能性があるのは自爆テロをも恐れないテロリストたちだけである。それ故に不拡散、それも核物質管理の強化が重視されるようになっている。
確かに米露両国が保有する核弾頭は現在でもそれぞれ数千発という大きな数字であり、加えてインド、パキスタンなどの事実上の核兵器保有国の問題もあり、核軍縮は遅々として進まないように見えるかもしれない。しかし、実際には広島・長崎以来60年以上も核兵器は使用されなかったのであり、大局的な流れは核軍縮に向けて進んでいる。たとえば、精密誘導弾の開発などが進み、今日ではより大きな破壊力を求めた第二次世界大戦当時とは異なり目標を正確に狙えるのであれば破壊力が小さい通常兵器の方が一般民間人の被害も少ないから好ましいとされており、核兵器への依存度は下がる一方である。このことは米政府の「核政策見直し」などにも示されている。このような核軍縮の現状はわが国や国際社会の核廃絶を求めての長年の働きかけによるところが少なくないのであり、核軍縮への努力は過小評価されてはならないである。

CTBTの現状をどう考えるか

話をCTBT、全面各実験停止条約の問題に戻すと、先ほども述べたようにオバマ大統領の「核なき世界」への願望にもかかわらず米上院によるCTBT批准承認の見通しは立っておらず、条約発効までに必要とされる44国のうち署名はしたが未批准の国が米・中・エジプト・イスラエル・イランの5国もあり、署名すらしていない国がインド、パキスタン、北朝鮮3国で、条約の発効は何時になるのか分からない状況である。
しかし、1999年にわが国が提唱して第一回CTBT発効促進会議を開いて以来今日まで7回これが開催され、その間にロシア、ベトナムなど、そして、最近では昨年12月にインドネシア国会が批准することを決めたので合計8国の批准が実現した。12年間で未批准国の数を16国から一桁の8国にまで減らすことができたのである。
そもそも1963年の部分核実験停止条約の場合は米・ソ・英3国の批准で発効するとされ、1978年のNPT条約はこれら3国に加えて40国が批准すれば発効するとされたが、CTBTについては多少とも核分野での能力があるとして国名を列挙された44国のすべて批准しないと発効しないとの極めて高いハードルが設けられた。これは中・露・仏など未だ十分な核実験をやっていないと思った諸国だけでなくインド、パキスタンはもちろん、米露両国もこのような高いハードルを容認した結果であった。それにもかかわらず既に182国が署名し、156国(インドネシアを含め)が批准し、あと8国の批准で発効するところまできたのは注目に値するであろう。
さらに注目すべきは、CTBTの発効を待つことなく10年以上も前からCTBT機構準備委員会が設立され、暫定的技術事務局も設立されて核実験探知のための観測所を世界各地に整備してきたことであり、すでに目標の80%とされる254の観測所と10の研究施設が完成され、運用されている。お陰で北朝鮮の核実験も十分に探知できることが証明されたし、多くの地震に関するデータや情報を国際津波センターに流す制度も導入された。また、福島原発事故などの放射能データなどを国際的に共有できる体制も整ってきている。このように、CTBTの有用性はその発効を待たずしていまや広く認められるにいたっている。軍縮関係者たちの長年にわたる熱意と努力がなしにはこうしたことは実現することがなかったのであり、これも核軍縮努力の大きな成果と考えてよいであろう。


通常兵器軍縮と日本の貢献

小型武器国連会議で国連総会議長席に座る
私は1995年末に外務省を退官したが、96年から2005年まで外務省参与に任命されて軍縮の仕事を続けた(年間を通じての外務省参与発令は2004年まで、2005年は公務で出張の都度外務省参与に任じられた)。核軍縮関係の仕事もいくつか担当させられたが、この10年間の仕事の大部分は小型武器軍縮、紛争予防、紛争再発予防に関連するものであった。当時の記録をチェックしてみたところ、この10年間で軍縮関連の国内出張は別として海外出張回数は全部で88回に達し、そのうち46回はもっぱら小型武器問題関連の出張であった。
先ほど核兵器軍縮との関連で私がネバダの核実験場の視察を許された例外的な日本人であった話を紹介したが、小型武器問題との関連でも私は国連総会本会議場の議長席に5日間朝から晩まで座る日本人としては前例のない経験をさせられた。よくテレビのニュースなどで各国の大統領や首相が国連総会の緑色の大理石が目立つ大きな演壇で演説する姿が放映されるが、その国連総会議長席のことである。
何故そうなったかというと、日本は毎年選ばれる国連総会議長に立候補したことがないのである。安保理常任理事国などの大国は国連総会議長にはならず、中小国から選出されるのが常識となっている。日本は長年安保理常任理事国を目指してきたので総会議長に立候補したことはなかったからである。他方、国連総会本会議場は国連が主催する閣僚レベルの主要な国際会議にも使われるが、日本が90年代中頃から主導的な役割りを果たしてきた小型武器問題に関しては、2001年7月の国連小型武器会議の前半1週間の閣僚レベル一般討論部分がこの国連総会議場で開催され、私がその議長となったのである。
問題への関心の高さを反映して発言希望者は全部で百数十人にも達し、制限時間一人7分としても議事日程に収まりきれず、二日目からは午前9時開始、短時間の昼の休憩を除いてはコーヒー・ブレークもなしに午後7時頃まで開催という強行軍となった。議長の私はトイレにも行かないようにした。会議の模様は地元の国連テレビでも中継され、各国の国連代表部などではそれが一日中放映されて日本の宣伝に大いに役立った。

国連による小型武器問題への取組

小型武器が問題となったのは、冷戦後は国家間の戦争が起こりにくくなった反面、主として小型武器で戦われる国内紛争や地域紛争で夥しい数の死傷者や避難民が出るようになったからである。たとえば、1992年から94年にかけての2、3年の間にアンゴラで50万人、ソマリアで100万人、ルワンダで80万人ほどの人が内戦で死んだとされ、このような犠牲者は冷戦後の10年間で500万人、年平均約50万人に達したとされている。こうした地域紛争に対し国連は当初は平和維持軍などで対応しようとしたが、それでは手に負えないことが明らかになり、紛争が起こるのを未然に防ぐ予防外交はどうかとの話になり、それも簡単ではないことから、そうした地域紛争で主として使われる自動小銃などの小型兵器問題が取り上げられるようになった。
わが国は95年以降毎年国連総会に決議案を提出して96、97年にかけての小型武器政府専門家パネル、続いて98、99年にかけての小型武器政府専門家グループを設立し、報告書を提出させることにした。私は4年間にわたりこの国連政府専門家のパネルとグループの議長をつとめさせられた。こうした国連の取り組みに呼応して世界各地でも小型武器問題に関する数多くのセミナー、地域会合などが開催され、その集大成として2001年7月に国連小型武器会議が開催され、全会一致で「行動計画」が採択された。
そこに至る過程で明らかになったことは、小型武器の問題は従来型の純粋に軍事的な軍縮、軍備管理の取組とは全く異なる紛争後の平和構築といった包括的な取組を要するということであった。たとえば、紛争が起こらないようにするためには小型武器が安価に簡単に人々の手に入らなくする必要があるが、そのためには各国が武器管理関連の法令を整備し、厳格に管理できる体制を整える必要があり、小形武器の密輸などを防止するための輸出入管理にも万全を期す必要がある。こうなると軍備管理というよりもよく治安が保たれる法治国家をどのようにして築いていくかの問題となるのである。
紛争の終わった被害地域についても同様である。英語の武装解除、動員解除、社会復帰の頭文字をとったDDRという用語が関係者の間で使われるようになったが、最初の「武装解除」と「動員解除」は軍備管理であるとしても、その結果戦闘員でなくなった人たちに職業訓練をして社会に復帰させる「社会復帰」は社会問題や経済復興の話である。それのみか、治安体制の確立、選挙を含む民主的政治体制の構築など、包括的な平和構築を目指さざるを得なくなる。要するに「小型武器問題」=「平和構築問題」となったのである。

「人間の安全保障」の視点の重要性

2001年の国連小型武器会議はこのような包括的なアプローチを内容とする80項目ほどの「行動計画」を採択したのであるが、その背景には安全保障と言えば国家の安全とする従来の考え方に代わり「人間の安全保障」という考え方が登場してきたことがある。
国連開発計画(UNDP)の1994年版「人間開発報告書」が最初に「人間の安全保障」の重要性を喚起したのはそれに先立つアンゴラ、ソマリア、ルワンダなどの国内紛争での被害の深刻さが問題とされたからであるが、「人間の安全保障」を問題にする以上は戦争や紛争の恐怖だけでなく犯罪や自然災害などの「すべての恐怖からの自由」も含む広い概念とならざるを得ないことは当初から認識されていた。
ところが、90年代の後半になると「人間の安全保障」をこのように幅広く解釈するのか、それとも破綻国家などの内乱の犠牲者を国際社会が介入して「保護する責任」を重視するやや狭い解釈とするのかを巡って先進諸国と発展途上諸国の間で見解の対立が生じた。カナダなどは市民団体と協力して97年のオタワ対人地雷禁止条約の締結に成功した勢いに乗ってG8サミットなどで「紛争予防と人間の安全保障」の問題を提起するなどした。これに対し国連憲章も認める内政不干渉の原則を重視するアジア・アフリカの多くの諸国はこのような狭い解釈に強く反発したのである。
こうした中で、2001年にわが国のイニシアティブにより緒方貞子JICA理事長とアマルディア・セン教授(当時ケンブリッジ大学、現在ハーバード大学)を共同議長とする「人間の安全保障委員会」が設立され、2003年にその報告書が国連事務総長に提出された。この報告書は「人間の安全保障」の定義としては広義の解釈を採用し、国連事務総長の表現を借りれば、それは恐怖からの自由、欠乏からの自由、そして尊厳されて生きる自由の三つを含む概念であるとされた。
そして、同じ2003年に発表されたわが国のODA大綱でも基本方針の一つとしてこのような「人間の安全保障の視点」の重要性が強調され、その上で、四つの重点課題の一つとして紛争被害地での「平和構築」を掲げるにいたった。その後、2005年に開催された国連創立60周年サミットの成果文書の中でもこの広い定義が採用されると同時に、結論が持ち越されてきた「保護する責任」については、すべての人が人間の安全保障への権利、つまり「保護される権利」があるとの前提の上で、「保護する責任」は第一義的には国家の責任であり、国家がこの責任を果たせない場合には安保理の決議を経て国際社会がこれを果たすとされたのである。もちろん、安保理には拒否権の問題があるが、一応は前進であったと考えてよいであろう。

通常兵器軍縮の現状とわが国の貢献

さて、時間もかぎられているのでこの辺で通常兵器軍縮の現状についてとりまとめてみたい。冷戦終了後は通常兵器軍縮は小型武器の規制からはじまって「人間の安全保障」の視点を重視する平和構築の問題として取り上げられるようになった。しかし、通常兵器軍縮も核軍縮と同様に遅々として進んでいないように見えるかもしれない。
たとえば、2001年の国連会議で採択された「行動計画」は全会一致で採択される必要があったので最大公約数的な内容のもので、生ぬるいとの批判が存在する。実は、私が政府専門家パネルやグループの議長をしていた当時から右と左からの批判は存在していた。右はアメリカの全米ライフル協会で、私などはつけ狙われる標的であった。そして、2001年の国連小型武器会議はその年に登場したブッシュ政権に対する全米ライフル協会の影響力により強い逆風にさらされたのであった。
左からの批判は捕鯨問題でのシー・シェパードのようなヒッピーまがいの人権団体関係者で、たとえば東南アジアで小型武器問題のセミナーなどを開催すると、そこに乗り込んできて「国連は小型武器問題に取り組んでいると称するが、小型武器は少しも減っていないではないか、この現実を見ろ」などとアジ演説をして、インドネシアのアチェの独立運動家が治安当局の銃撃で逃げまどう映像をスクリーンで放映したりした。
しかし、目立たないようでも2003年以降国連の場で小型武器行動計画の実施促進のための隔年会合が周到な準備にもとに開催されてきており、それに加えて個々の小型武器の追跡を容易にするための刻印のつけ方に関する国際文書とか、武器取引を仲介するブローカリングを規制する国際文書も採択されてきた。本年からは通常兵器の取引一般を規制するATT(武器取引条約)の交渉も開始されることになっている。
私は国連小型武器会議の1年後の2002年7月にマニラで開催されたセミナーに参加した際に同市の警視庁で開催された小型武器破壊式典にも出席した。主催者のマニラの警視総監が私に語った言葉が忘れられない。従来からアメリカの影響力が強いフィリピンでは銃が出回るのは当たり前とされてきたが、警察が先頭に立ってこういう式典を開催して民間人による銃保有はよくないと訴える時代が来るとは思ってもいなかったと述懐していた。時の流れの潮目が変わるというのはこうしたことを指すのであろう。
もう一つの目安としてはアフリカにおける紛争の頻度がこの10年ほどの間に減少していることがある。SIPRI(ストックホルム国際平和研究所)年鑑によれば世界全体での紛争の件数(死者の数が年間1000人を超える武力衝突を1件と数え、その後は死者数が25名を超える場合にこれを継続中の紛争と数える)は1990年には30件、91年には31件であったが、2009年には17件、2010年には16件と減少している。そのうち、アフリカでの紛争は98年、99年に11件であったのが2009年、2010年には4件にまで減少している。4件のうち2件はスーダンとソマリアの内戦で、残る2件はルワンダとウガンダのすでにかなり沈静化した内戦である。その結果、犠牲者の数も90年代を通じての年間平均約50万人という規模ではなくなっている。これは小型武器問題が10数年前から国連で取り上げられるようになって以来、アフリカ連合(AU)による域内紛争への取組を含め国際社会の取組が進み、徐々に功を奏してきたということであろう。要するに、10数年前からわが国が推進してきた通常兵器軍縮の努力も、それなりに成果をあげていると考えてよいであろう。

2011.10.3
瀬谷ルミ子事務局長の著書出版を祝して

瀬谷ルミ子事務局長の著書出版を祝して

2011年10月3日

このほど当センターの瀬谷ルミ子理事兼事務局長の著書「職業は武装解除」が朝日新聞出版から刊行され、早くも幅広い読者層の間で好評となっていることを心から嬉しく思います。

瀬谷さんはまだ30代なかばの若さで人生はこれからですから自叙伝を出版するには早すぎます。しかし、この著書を読まれる方は誰でも瀬谷さんが子供のころから何を考え、どのようなきっかけから今日のように紛争地とかかわりのある職業の専門家となったかについての臨場感あふれる濃密な回顧録に大いに感銘を受けると思います。また、何事についてもしっかりと自分の考え方を持ち、そのうえで何をすべきかの目標を定め、それに向かって全力投球をする、場合によっては退路を断ってでも前に進もうとする瀬谷さんの心意気に勇気づけられるでしょう。さらには、瀬谷さんが世界の、とくにアフリカの紛争地での経験をふまえて確信するにいたった日本人としての国際貢献のあるべき姿についての考え方からも多くを学ぶことができるでしょう。

この著書でも若干触れられていますが、瀬谷さんが当センターの事務局長に就任したのは4年半前の2007年4月のことで、当時の最大の課題は「壊れた組織を立て直す」ことでした。私が理事長をお引き受けしたのはその一年前で、団体としての解散を真剣に検討した時期もありましたが、2006年8月の第10回通常総会で定款の改訂、役員人事の刷新などを断行し、組織を大幅にスリム化して再出発することになったのです。当時は本部事務局の職員も1、2名のアルバイトを除けばゼロという文字通りゼロからの再出発でした。そして、理事長の私が当センターの建て直しのために不可欠と考えて最善の努力を尽くしたのが優秀な事務局長の確保でした。

私は外務省を退官した後10年近くも国連の小型武器問題や紛争予防問題への取組をお手伝いする仕事をしていました。そうした関係もあり、当センターでは設立当初から副会長をつとめていました。したがって、当センターの紛争予防市民大学院夏季セミナー・コースの第二期生であった瀬谷さんのその後の活躍ぶりにはかねてから注目していました。また、仕事の関係で私と接触の多かった上記セミナー・コースの2、3の同期生にも打診して瀬谷さんを事務局長に迎える可能性を探ってみたのです。無駄ではないかも知れないとの感触をつかんで直接ご本人にお願いしたのは2006年12月のことでした。

物事の成否にはタイミングが決定的な役割をはたすことがあります。89年11月のベルリンの壁崩壊から東西ドイツの統一まで一年もかかりませんでしたが、このタイミングが成否を決したといわれており、あと半年遅ければソ連はシュワルナッゼ外相ではなくなっていたし、一年後であればゴルバチョフ大統領も去っていたのです。同じように、私が事務局長の人選に必死で取組んでいた時期は丁度瀬谷さんが20代を最後に国連や政府機関という枠組みから外に出て仕事をしようと決意した時期と重なっていたのです。瀬谷さんからは他の職場の可能性もあたってみたいと言われたので祈る気持ちで返事をお待ちし、引受けますとの朗報に接したのは2、3ヶ月後のことでした。この偶然のタイミングの良さについては天に感謝するほかありません。

瀬谷さんの事務局長としての活躍が十分に期待にこたえるものであったことはここで詳しく説明するまでもありません。未だ道は半ばで、今後のさらなる発展にも期待することができます。この際、忘れずに強調しておきたいことは、この著書の出版自体も当センターの活動目的に沿ったものであるということです。当センターは定款にあるとおり「冷戦後の世界において地域紛争、民族紛争が頻発していることを懸念し、・・・これらの紛争の発生予防、拡大防止および再発防止(以下「紛争予防」と総称する)のために、民間分野における日本の貢献を強化する」ことを目的としています。瀬谷さんもこの著書のおわりの方で述べているように、「日本人がどんな形でも良いので自分ができる範囲で現地の人々の現状を変えるための行動をするきっかけを作っていきたい」というのが当センターの活動方針でもあります。その意味で、この本を少しでも多くの方々に読んでいただければと願う次第です。


2011.8.2
信濃毎日新聞掲載記事

信濃毎日新聞掲載記事

2011年8月2日

以下は7月末に長野県松本市で開催された第23回国連軍縮会議に先立ち、信濃毎日新聞が同月17日の朝刊(第4面)に掲載した「小型武器の規制ーー個人の安全どう守るか」と題する私へのインタビュー記事の全文です。この国連軍縮会議ではもっぱら核軍縮問題や原発問題が取り上げられ小型武器はとくに話題とはなりませんでしたが、私は恒例により軍縮専門家として出席してきました。

============================信濃毎日新聞 7月17日掲載

「平和への課題」

1992年からの3年間に、アフリカのアンゴラ、ソマリア、ルワンダで起きた三つの紛争だけで約280万人が犠牲になりました。食料不足による餓死もあるが、主に自動小銃などの小型武器で殺されている。それで、小型武器こそが事実上の大量破壊兵器だといわれ始めました。紛争が続く限りは、そこがブラックホールのようになって世界中から安い武器が流れ込む。武器ブローカーは中東のレバノンやシリアなど国内規制が緩い国に輸出国と輸入国の業者を呼んできて取引をアレンジするのです。

アフリカは被害者だと思っています。主に先進国で製造された武器が途上国に入ってくる。冷戦時代は陣取り合戦で東西両陣営から大量に送り込まれた。今もアフリカでは安い物でニワトリ1羽ぐらいの値段で、旧ソ連が開発したAK47自動小銃が手に入る。ベトナム戦争で使われたこの銃がアンゴラに売られ、幾つもの紛争で使われたともいわれます。だから、密輸で簡単に流れ出るのをどうやって止めるかに力を尽くしました。

2001年、日本の提案で小型武器の非合法取引を規制するための国際会議が初めて開かれました。日本は紛争地域などに武器を輸出しない「武器輸出三原則」がある世界でも珍しい国ですから、リードしやすかった。

冷戦時代は軍縮といえば核兵器と決まっていた。小型武器には国際的な規制がなかったので、具体的な取り組みを決めた行動計画が会議で採択されたのは画期的だった。今は密輸されても製造元が追跡できるよう、一つ一つの武器に製造国などの刻印を付けるようになりました。

世界で起きる紛争の数は1990年代初頭の約半分に減っています。来年からは戦車や小型武器の輸出入を規制する「武器貿易条約」の交渉が本格的に始まります。主要な武器輸出国や輸入国の反対もあるでしょうから簡単にはいかない。ですが、紛争予防に希望が持てます。

対人地雷などと違い、小型武器は犯罪を取り締まるためにも必要だから生産禁止はできない。軍隊や警察が持っている銃を安全に管理することが大事です。

02年にフィリピンのマニラで、国家警察が主催した武器破壊式典に参列したときのことです。フィリピンでは自分の身を守るために市民が武器を持つのは当然だと考えられていた。武器を持ってはいけないと啓発するため、市民から武器を回収してロードローラーでつぶすのですが、その様子を見たマニラ市の警視総監が私に言った言葉が忘れられません。「このような式典を行う時代が来るとは思ってもみなかった。」意識を少しずつ変えることから始めなくてはと実感しました。

世界の軍縮は、小型武器の問題が議論されるまでは国の安全が第一だった。それは昔の考え方で、これからは個人の安全をどう守るか。貧困からの自由、人としての尊厳にもつながると思います。


2011.4.5
世代交代へ第一歩のJCCP

世代交代へ第一歩のJCCP

2011年4月5日

先般の東日本大震災は世界史上最大規模のもので、諸外国から寄せられた声援や支援も絶大なものでした。われわれ日本人はこうした暖かい声援や支援に感謝しつつ、それに応えて皆で力を合わせてこの困難を乗り切っていく勇気と決意と努力を必要としています。復興のための費用を税金や寄付金などの形で負担し合うとか、節電や節水などの形で不便を分かち合う努力が今後とも必要とされるでしょう。そうしたなかで、誰もがそれぞれの職務や職場での責任を従来にもましてしっかりと果たすべきであるのは当然のことです。こうした厳しい情勢のなかで迎えた4月からの新年度ですが、JCCP本部のある東京でも例年より少し遅れて桜が開花しました。確実な春の訪れに今さらながら自然の力の偉大さを実感しているところです。

ところで、JCCPが本年1月から黄色のタンポポを象徴する新しいロゴに衣替えしたことはこのホームページでも紹介しましたが、それに続いて、4月からはじまる新年度を前に当センターの役員たちの顔ぶれも世代交代の第一歩を踏み出しました。これは去る3月24日に明石会長が議長をつとめたJCCP通常総会で新年度の事業計画おおよび収支予算が承認されると同時に、4月からの第6期役員(任期2年)の選任も行われたからです。詳細はホームページの役員名簿などを参照願いたいのですが、理事総数は従来の9名から7名に減少し、留任したのは理事長の私を含めて4名で、3名の新理事が選任されました。この新理事のうち、瀬谷事務局長と野村総研の永井恒夫氏の二人が30歳代の若さであることは世代交代へ向けての第一歩と考えてよろしいでしょう。

他方で、JCCPの前身である日本予防外交センターが12年前に設立された当時から会長をつとめてこられた明石康会長が引退され、近衛忠煇日赤社長と並んで顧問に就任されました。会長職は当面空席となり、暫定的に理事長の私が会長代行をつとめます。明石前会長は私が後任となるよう勧めてくれましたが固辞しました。それでは世代交代とはならないし、軍縮や紛争予防関係の国際会議の経験が多少はあるとしても元官僚ではNGOの会長職に適さないと考えるからです。したがって、今後とも適切な会長候補者を見出す努力が続くこととなります。

私自身が理事長に留まることにも若干躊躇があります。12年前に明石会長を補佐する副会長を拝命した当時から明石会長が辞めるときは私も辞めると公言してきたからです。ところが、6年前にJCCPが運営上の困難に直面し、明石会長に頼まれて理事長をお引き受けし、組織改革に取組むことになったのです。定款を改訂して組織を合理化し、人員や経費を削減し、湯島の家賃格安の事務所に移転もしました。そして、2007年4月から瀬谷事務局長を迎えることができ、今日のようにアフリカを中心に本格的な事業活動を展開できるようになったのです。したがって、途中から託された組織改革、世代交代などの努力が軌道に乗るのをもう少し見届けるのも私の責務であろうかと考えています。
幸いにして好ましい方向で物事は進んでいるように思われます。瀬谷事務局長は新理事として当センターの運営にかかわることになりますが、引き続き事務局長を兼務します。同事務局長の努力によりJCCPが治安改善(SSR)を中心とする平和構築事業と現地地域団体の能力向上事業に特化する団体としての方向性が明確となってきています。

さらに、もう一人の新理事の永井氏は所属する野村総研で5年ほど前に企業内ベンチャー事業としてスポーツ選手に対するメンタル・コーチングのようなコンサルティング事業を日本国内の企業幹部向けに立ち上げ、成功させてこられた実績があります。同氏の理事選任が行われた総会の席で同氏はJCCPと企業の橋渡しの役割を果たしたいと挨拶されましたが、願ってもない方を理事にお迎えできたのは大層喜ばしいことです。

東日本大震災の後だからではありませんが、何事にも明るい希望をもって前に進む勇気と努力が肝心であると思います。


2011.1.4
米上院による新STARTの批准承認を歓迎する

米上院による新STARTの批准承認を歓迎する

2011年1月4日

 新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。日本国際フォーラムの「百花斉放」への私の最新の投稿記事を以下に転載させていただきます。ささやかな喜びかも知れませんが、オバマ米大統領の努力により核軍縮に向けての努力が過早な挫折を免れ本年以降も続きそうな見通しとなったことを喜ばしく思います。


 暮れの12月22日に米上院は野党共和党議員13名を含む賛成71で、反対の26を圧し、米ロ間の新START(戦略兵器削減条約)の批准を承認した。オバマ大統領の民主党は11月の中間選挙で下院では共和党に逆転され、上院でも議席差が縮まり、共和党が「新STARTの審議は年明けの新議会で」と言い出したので、批准の見通しはきわめて困難となっていた。そこでオバマ大統領以下バイデン副大統領、クリントン国務長官などが総力をあげて共和党上院議員の説得につとめた。今後10年間で800億ドルの支出を約束していた核兵器近代化予算をさらに50億ドル増額し、条約文面の改訂を必要としない付帯決議も受け入れるなどとして、必要とされる3分の2以上の賛成を確保し、批准承認にこぎつけた。これはオバマ政権にとり画期的な外交的成果と言ってよい。

 仮に議決が新議会に持ち越され、条約の批准の見通しが立たなくなるとしたら、昨年4月のプラハ演説で幕開けした「核なき世界」へ向けての動きは、一昨年4月の米政府による「核政策見直し」の発表、ワシントンでの「核セキュリティー・サミット」の開催、そして5月のNPT運用検討会議での「行動計画」を含む最終文書採択にもかかわらず、最終的には挫折を余儀なくされたであろう。核軍縮の前進のために、折角開かれた「機会の窓(Window of opportunity)」が僅か2年足らずで閉ざされる可能性は少なくなかったのである。

 米上院による批准承認により得られるものは多々ある。先ず、約1年前のSTARTⅠ条約の失効により停止されていた米ロ両国による戦略核兵器施設の相互査察が再開され、核軍縮分野での米ロ両国間の相互信頼、協力関係が修復される。これが核軍縮に向けての国際的努力に好影響を及ぼすことは言うまでもない。それに加えて、新STARTの批准が先送りとなれば絶望的とみられていたCTBT(包括的核実験禁止条約)の米上院による批准承認も、議席差は縮まったとはいえ、今回と同様な超党派の努力により達成される余地が残されることとなった。

 さらに好ましいことに、昨年8月9日のこの欄の拙稿でも述べたように、新STARTの柱の一つである戦略弾道ミサイルの弾頭に通常兵器を搭載する「即時地球規模攻撃(Prompt Global Strike)能力」についても、当初は強く反対していたロシアも、中国も、強い関心を示しはじめているとのことである(ハドソン研究所のクリストファー・フォード研究員の12月19日付論文)。換言すれば米国以外の核兵器大国の間でも、核兵器への依存度を減らす傾向が看取されるようになってきた。

 先般の中間選挙でオバマ大統領の民主党が大敗したので、2012年の選挙での同大統領の再選は危ういとの見方もあるが、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授も指摘しているように、2年後も共和党のサラ・ペイリン元アラスカ州知事などのボストン・ティー・パーティー勢力が優勢とは限らないであろう。他方、オバマ大統領の「核なき世界」政策は国際的にも支持が多いことから、一時は閉ざされるかに見えた「機会の窓」が、今後2年と云わず数年間は開いたままである可能性も出てきたように思われる。


2010.10.12
第18回通常総会を終えて、また、認定NPO法人として認定されて

第18回通常総会を終えて、また、認定NPO法人として認定されて

2010年10月12日

 当センターは本年7月6日付で国税庁から認定NPO法人として認定されましたが、その後の初の総会となる第18回通常総会が9月27日に明石康会長の司会のもとに開催されました。この総会には当センターの筆頭支援者である北海道の伊藤義郎氏がはじめて出席されただけでなく、神戸、横浜などから数名の新しい支持会員も出席して当センターの事業活動につき活発に質問、発言されたので、これまでになく新鮮で充実した総会となりました。

 例えば、支持会員の一人から当センターが海外で事業活動を開始、終了する際に基準としているのは何か、他のNGOとどこが違うのかとの質問がありました。これに対し瀬谷事務局長から、当センターが海外事業活動を開始する際の基準としているのは(1)現地に支援ニーズがあること(独自の調査で判明、または現地からの要請があるなど)、(2)ニーズはあるが当センター以外にやり手がいないこと、または支援可能な団体が著しく限られていること、(3)当センターにその地域や支援ニーズに対応しうる専門家がいること、であると説明しました。活動を終了する基準としては、当センターは紛争予防、平和構築の観点から現地の人たちが自力で平和を維持する活動を実施できるようになることを最終目的としており、それが可能となったタイミングで当センターは事業を終了するか、現地関係者に引き渡すことにしており、そのため事業開始当初から現地住民・関係機関の能力強化を行っている、と説明しました。

 当センターがカンボジアでの事業活動を昨年度末に修了し、他方、この1年ほどの間にケニア、南スーダン、ソマリアで新規事業を開始してきたことはこのホームページでも、また、ニューズレターでも詳しく紹介しているので繰り返しませんが、上記の基準が当センターの海外事業活動の基本となっていることは言うまでもありません。

 また、この総会では昨年度の事業報告と収支決算が承認されましたが、承認された収支計算書にあるとおり収入も支出もそれぞれ1億円近くに達しており、一昨年度と比較してほぼ倍増となりました。日本の経済情勢が厳しいなかで事業規模がこのように現地の支援ニーズにより広く応える形で発展してきたのは誠に喜ばしいことです。

 さらに、この総会に先立ち7月に国税庁から認定NPO法人としての認定を受けたことも当センターにとり大層光栄なことでした。何故なら、認定NPO法人とは「NPO法人のうちその運営組織及び事業活動が適正であること、並びに、公益の増進に資することにつき一定の要件を満たすものとして国税庁長官の認定を受けたもの」であるからです。これからはそのような期待に応える団体として一層の責任感をもって行動していこうとの決意をあらたにした次第です。

 他方、当然のことながら、認定NPO法人として認定された以上は当センターの寄付収入も増えることが期待されますが、そのための努力なしには結果は得られないというのが現実です。例えば企業からのご寄付については従来も一定の限度額内で寄付金の損金算入は可能でしたが、認定NPO法人となった結果それとは別に増額された「特別損金算入限度額」が認められることになり、有難いことです。しかし、ご寄付はこちら側からの広報努力とか企業への誠意ある働きかけなしに自然と集まるものではありませんから、そのような努力や働きかけが必要ということになります。

 ところで、やや心外であったのは議決権のある正会員からの年会費は認定NPO法人となっても寄付金とはみなされず、議決権のない一般会員の年会費であれば寄付金控除の対象となるとの国税庁側の担当者の説明でした。当センターの場合、正会員は年会費2万円の支持会員と年会費30万円の賛助会員からなり、後者は主として企業などの団体会員を念頭に設けられた制度です。他方、議決権のない一般会員の年会費は1万円、5千円、3千円の3種類です。これらの一般会員が寄付金控除を受けるためには税務署に領収書を添えて所得税の確定申告をする必要があり、試算してみると1万円の会費につき得られる節税効果は400円程度に過ぎません。大部分の納税者は給与所得者で確定申告をしませんから、この程度の金額のために一般会員の多くが面倒な手続きをとるとは考えられず、このような一般会員が寄付金控除制度の主要な対象者であるとも考えられません。

 そこで、より高額な正会員の年会費が問題となります。支持会員の年会費は2万円ですから控除対象となった場合の節税効果は900円程度ですが、賛助会員となると年会費は30万円ですから節税効果は1万4900円程度となります。企業や団体であれば全額の損金算入も可能となります。しかし、残念ながら、正会員は対価性のある議決権を有するのでその年会費は寄付金控除の対象にできないとのことです。

 その論拠は、認定NPO法人制度の解説などをみると、一般に年会費は会員であることにより得られる対価に対して支払われるものであり、対価性のない寄付金とは違うということのようです。たとえば、芸術観賞とか遺跡めぐりなどの同好会の年会費であれば情報提供や便宜供与、料金割引などを対価と考えてよいでしょう。しかし、特定非営利活動法人の場合は社会への奉仕的な活動を目的としており、会員の年会費はそのような活動を支援するためのものですから対価性に乏しく、むしろ寄付金に近いとも考えられます。

 問題は正会員の「議決権」に対価性があるか否かです。特定非営利活動促進法はもともと民法、商法、そして会社法から枝分かれして制定された法律です。正会員による総会のことを「社員総会」と呼んでいるのはこのためです。会社法上の「社員総会」とは株主総会のことであり、株式には金銭的価値だけなく議決権も付随します。出資金額に応じて議決権、発言権も大きくなるのは営利活動を行っている企業の場合には当然のことです。

 ところが、特定非営利活動法人は株式会社のように収益をあげることを目標としていませんから議決権に対価性があるとは言い難いように思われます。仮にそのような対価性があるとしたら、当センターの賛助会員の年会費は支持会員の15倍ですから議決権も15票とするべきところです。そうしていないのは、当センターが設立当初から賛助会員には資金的に余裕のある企業や団体、個人になってもらい、当センターの財政基盤の強化に協力してもらうことを期待していたからです。したがって、この問題については国税庁当局に引き続きご相談させていただきたく思っているところです。

2010.8.10
「拡大核抑止」から「通常兵器も含む拡大抑止」へ

「拡大核抑止」から「通常兵器も含む拡大抑止」へ

2010年8月10日

 以下は日本国際フォーラムの政策掲示板「百花斉放」に8月9日に掲載された私の投稿記事です。

 本年5月のNPT再検討会議が、内容的に弱められたとは言え、具体的な「行動計画」を含む最終文書を採択したのは、少なからぬ成果であった。オバマ政権の立場からすれば、NPT会議の成功なしには核不拡散体制の維持・強化も、「核なき世界」に向けての前進もあり得なかったので、会議成功のための周到な準備が報われたということであろう。その一つが本年4月の「核政策見直し」の公表であり、もう一つが米露「新START条約」の調印であった。いずれも今後数年間は有効な文書であり、中間選挙を控えた米国政情の短期的動向とは関係なしに、核兵器への依存度低下の趨勢が示されたことが注目に値しよう。

 第一の「核政策見直し」の核心的な部分は、核兵器の「基本的な」目的は核攻撃の抑止であり、これが「唯一の」目的となることを目指すが、消極的安全保障との関連ではNPT加盟国で不拡散義務を遵守する国に対しては、たとえ化学兵器や生物兵器による攻撃を受けた場合であっても、核兵器は使用しないとした箇所である。通常兵器の抑止力で目的は達せられるとの理由からである。米国の立場からすれば、北朝鮮とイランはこの義務を怠っているので、いかなる攻撃に対しても核兵器による反撃は可能であるが、両国が不拡散義務を遵守するようになった場合には、核兵器は使用しないとするのだから、大胆な方針転換である。わが国についてみても、「核抑止力」でなく「通常兵器による拡大抑止力」に依存する度合いがそれだけ増えることになるであろう。但し、この「核政策見直し」では、化学兵器は別として、生物兵器に関しては、最近の進歩にかんがみ再調整もあり得ると断っている。この最後の点については、筆者個人としては、生物兵器はその性質上甚大な被害が瞬時に広範に発生するとは想定し難いので、再調整を必要とする根拠は乏しいとの立場である。

 第二の米露「新START条約」で核兵器への依存度を減らすとの観点から大いに注目に値するのは、ICBM(大陸間弾道ミサイル)およびSLBM(潜水艦発射式弾道ミサイル)に搭載される弾頭は、核兵器であろうと、通常兵器であろうと、同一に数えるとの計算方式である。両国は7年以内に戦略兵器運搬手段の上限を800、そのうち実戦配備の運搬手段の上限を700、実戦配備の戦略核弾頭数の上限を1550とすることに合意した。通常兵器弾頭をICBMやSLBMに搭載できるようにした米側の狙いは、イランや北朝鮮などの遠隔地では速度の遅い巡航ミサイルでなく、長距離弾道ミサイルを使って迅速に通常兵器弾頭で攻撃を加えられようにすることのようである。この方式では、通常兵器戦力で圧倒的に優勢な米国のみを利することになるので、ロシアは当初はこれは戦略兵器体系を不安定化させるものとして強く反対したようであり、恐らく中国も同様の立場であろう。しかし、結局この方式が合意されたことは、将来的には他の核兵器国も次第に米国を見習い、核兵器への依存度を減らしていく可能性を示唆しているように思われる。


2010.4.19
第10事業年度を迎えたJCCP

第10事業年度を迎えたJCCP

2010年4月19日

 当センター(JCCP)が特定非営利活動法人として東京都庁に認可されたのは2002年の2月末でした。そのため、同年3月末までの初年度の事業活動は「なし」とされ、同年度のすべての事業活動は当センターの前身である「日本予防外交センター」の事業活動とされたのです。2002年4月からが当センターの第2事業年度とされ、そのように数えて今年の4月からが第10事業年度となります。今年が設立10周年であるかのように誤解されがちですが、実際に10周年を迎えるのは明後年2012年2月となります。
第10事業年度の事業計画と収支予算は去る3月末に明石康会長を議長として開催されたJCCP第17回総会で承認されました。その中でとくに注目に値するのはカンボジアにおける事業活動の終了と、東アフリカにおける事業活動の発展でしょう。
 カンボジアに関しては数日中に発行されるニュース・レター(6巻1号)にも寄稿文を掲載するので詳しくは述べませんが、「日本予防外交センター」の時代から先方政府の要望に応えて内戦終了で不要となった小型武器の回収、管理、破壊などを手伝う事業活動を行ってきました。これは平和定着に貢献する有益な事業で、所期の目的を達成することができました。このほか、民間財団を含む多くの助成団体のご支援を得てラタナキリ州での少数民族への識字教育事業とか、僻地での小学校建設などの事業も実施してきました。
 他方、この10年ほどの間にカンボジアの社会、経済の復興は着実に進み、国内紛争再発の懸念も遠のき、紛争予防と平和構築への民間の貢献を推進するとの当センターの本来の事業活動の対象国とは言えなくなってきたことも事実です。そのため、カンボジアは親日的な国で当センターとしても長い関わりから愛着心を捨て難い気持ちはあったのですが、第9事業年度をもってすべての事業活動を終了し、現地事務所も現地職員たちに十分な予告期間を与えた上で閉鎖する運びとなったのです。
 このカンボジアでの事業活動の終了を補って余りあるのが最近の東アフリカにおける事業活動の拡大、発展です。当センターは2年前に在ケニア代表事務所を設立してユネスコと共同で東アフリカ諸国の現地NGOの平和構築分野での能力強化事業を行ってきましたが、その後、選挙暴動後の国内避難民キャンプやスラム地域での住宅建設や心のケアなどの分野でのCBO(地域任意団体)の能力強化プロジェクトを立ち上げました。今年に入ってからはこれをJICAによる助成事業として実施することになりました。さらに、昨年11月からはUNDP(国連開発計画)ソマリア事務所からの委託を受けてソマリアの地域コミュニティーの長老などの伝統、文化を活用した地域レベルでの治安改善事業にも取組んでいます。
以上の在ケニア代表事務所の事業活動に加えて、当センターは本年1月からは南スーダンの首都ジュバにも代表事務所を新設し、路上生活を余儀なくされている子どもや若者などを対象に啓発、職業訓練事業をジャパン・プラットフォオームの助成により開始したところです。
 このように当センターの事業活動は東アフリカを拠点として着実に拡大する傾向にありますが、これは3年前に瀬谷事務局長を迎えたときからある程度予測されていたことです。当時は2008年のアフリカ開発会議(TIKADⅣ)開催を前に日本政府もアイデアを模索し、募っていました。アフリカでの平和構築活動の分野での経験が豊かな瀬谷事務局長の知識、経験が少なからずお役に立ったのですが、TICADⅣ終了後の今日でも平和定着のためのニーズが高いアフリカの状況には基本的に変わりがないからです。
 以上に述べたケニア、ソマリア、スーダンでの当センターの事業活動のどれ一つとっても事前調査から企画、立案、そして実施のそれぞれの段階で多大な時間と労力を要する作業であることは言うまでもありません。瀬谷事務局長自身も昨年は約7ヶ月間をアフリカ出張で過ごしたほどですから、理事長の私としましては事務局長、在外代表も含め本部と在外の職員一同の熱意と献身に心から敬意と謝意を表する次第です。
 事業拡大にともない当センターの予算規模も本年度は前年度にくらべ倍ほどの2億円余りに増大しており、今後も一層の拡大基調にあると考えてよいでしょう。このように幸先のよい第10事業年度を当センターは神田川から10メートルほどしか離れていない新らしい本部事務所で迎えました。川の両岸に満開の桜並木は噂に違わず圧巻でした。花冷えの日々が続いたのが残念でしたが、却って身も心も引き締まる思いで、希望に満ちた新年度を迎えることができました。
 当センターの会員、支持者の皆さま方には今後とも一層のご理解、ご支援と、ご指導、ご鞭撻をよろしくお願い申し上げます。


2010.1.18
核軍縮進展の鍵を握る2010年

核軍縮進展の鍵を握る2010年

2010年1月18日

 以下は日本国際フォーラムの政策掲示板「百花斉放」に1月15日に掲載された私の投稿記事です

 暮れの12月15日に東京で鳩山首相とラッド豪首相に提出された「核不拡散・核軍縮に関する国際委員会」(エバンス・川口委員会)の報告書を一読した。英文の本体だけで約230頁あり、同じくエバンス氏が中心となって13年前にまとめた「キャンベラ委員会報告書」の約5倍の長さである。2012年までの短期目標、2025年までの中期目標(核兵器の総数を米ロそれぞれ500発以下、全世界で2000発以下など)を設定し、その先の目標として「核兵器ゼロの世界」を掲げている。読み応えのある提言集であり、今後長年にわたり核廃絶への処方箋として参照されることになるであろう。

 他の類似の報告書とくらべ、不拡散体制強化の論議に大きな比重が置かれているのが、この報告書の特色であるが、核軍縮に焦点をしぼってみると、「インド、パキスタン、イスラエルも含めてすべての核兵器保有国は、核兵器のない世界に向けての努力を誓うべきである」とし、そのような世界が実現するまでは、核兵器国が同盟国のために「拡大抑止」を維持するのは当然との立場で一貫している。例えば、「拡大抑止」は「拡大核抑止」と同一ではないとしながらも、「アメリカの通常兵器能力が突出すると、他の核兵器諸国の核廃絶への抵抗も強まるので、通常兵器能力のバランスも必要である」としている。それでも、「化学兵器や生物兵器による攻撃を抑止するには、核兵器では均衡を失するので、圧倒的な通常兵器による対応で十分である」と論じ、さらには、「北朝鮮がその僅かな核兵器で自国の安全が保証されると考えるとしたら大間違いで、北朝鮮による無謀な挑発は自殺行為となる」と論じている。

 他方、米ロ両国大統領の任期第1期終了の2012年までの短期目標としては、START条約の更新、米国によるCTBT条約の批准、すべての核兵器保有国による「核兵器保有の唯一の目的は核攻撃の抑止である」との原則の承認などを提言している。START条約更新に関しては、昨年7月に両国の大統領間で核兵器の削減目標数などの大枠が合意され、調印は12月上旬の失効以前とされていた。しかし、検証制度などの細部についての交渉が長引き、新条約が発効するまでの間は既存の条約の精神で協力するとの暫定合意で今日に至っている。新条約が調印されても、発効には米上院による承認が必要であり、肝心なCTBT条約の上院での承認はその後の話で、「地平線上に暗雲」といった感じである。

 そもそも、本年5月のNPT運用検討会議の成功のためには、START条約更新が必須の条件とされ、CTBT条約の上院承認はその後とされてきた。ところが、START更新条約の上院承認には米国の「核政策レビュー」の完了が前提であり、こちらの作業完了も年末までと言われていたのが2月1日、さらには3月1日へと延期されている。そして、アメリカでは中間選挙で政権与党が議席を増やすのは容易ではないことから、11月の選挙前に米上院のCTBT承認を求めるとなると、時間的余裕は極めて乏しい。しかし、アメリカが積極的になったおかげで世界的に高まってきた核軍縮に向けての機運が、失われることの損失はあまりにも大きい。本年4月の米国主催の核セキュリティー・サミットとそれに続く5月のNPT運用検討会議の成功により、機運が一層高まり、「暗雲」が吹き飛ばされ、2012年までの短期目標達成に向けて進展することを望みたい。

2009.10.8
本部事務所の移転など、JCCP近況ご報告
(第16回通常総会を終えて)

本部事務所の移転など、JCCP近況ご報告
(第16回通常総会を終えて)

2009年10月8日

私が明石康会長に頼まれて当センターの運営体制建て直しのために理事長をお引き受けしたのは3年前の2月でした。当時のこの掲示板でも述べていますが、その年の8月の第10回通常総会で大幅な定款改正、組織体制のスリム化、合理化などの一連の措置が承認され、再建に向けての第一歩が踏み出されたのです。

 3年前の当時は外務省やジャパン・プラットフォーム(JPF)などの助成団体への事業助成の申請も自粛していたので年間事業費収入も数百万円程度(継続案件)といった最低の状況でした。その年の10月には経費節約のため本部事務所も六本木ヒルズ近くの麻布十番から湯島に移転してきたのです。明石書店の石井昭男社長から市価の数分の一という破格の家賃で現在の事務所を提供して頂いたからです。まさに、地獄で仏に会ったような心地でした。ノーベル平和賞のアジア版と言われるマグサイサイ賞を受賞されるほどの方ですから、当センターの活動趣旨をよく理解して下さり、3年間の期限付きでしたが、「その間に力をつけてください」と励まして下さったのです。

 その後3年が経ち、いよいよ来月にはこの事務所を後にして早稲田に移転することになりました。「ひとり立ち出来るほど力がついたのか?」と問われれば、正直なところもう少し時間が欲しいのですが、いつまでも甘えることは許されません。幸い、当センターはこの3年の間に次第に本来の活気を取り戻し、事業活動を着実に拡大することに成功してきました。自粛していた事業助成への申請も2年前には再開され年間事業費収入も3千万円ほどに達しました。その翌年にはこれが4千5百万円ほどに増大し、4年目の本年度には1億円に迫る状況となっています。

 当センターのこのような力強い復活ぶりにつきましては9月9日に開催された第16回通常総会の席で私から報告しましたが、瀬谷事務局長からも最近の事業活動の展開状況について詳しい説明が行なわれました。この1年間に開始された新規事業を列挙してみると、先ず南セルビアでは松元洋在バルカン地域代表と上田貴子プロジェクト・コーディネーターにより小学生を対象とする民族間融和事業が実施されました。外務省の助成を得て行われた事業です。カンボジアでは少数民族の識字教育を日本国際協力財団の助成により開始しました。また、本年4月に内戦が終了したスリランカでも塚本俊也理事に現地調査をお願いするなどして国内避難民キャンプで妊産婦健康改善支援事業を開始しました。

 言うまでもなく、最も多くの新規事業が開始されたのは東部アフリカ地域でした。高井史代在ケニア代表が責任者となって実施している東アフリカ地域の現地NGOの平和構築分野での能力強化事業はUNESCOとの共同プロジェクトですが、すでに第2年度に入っており新規事業ではありません。しかし、ケニア国内でJPFの支援を受けて開始された暴動被害者への心のケア支援事業と「国際ボランティア貯金」の助成を受けて開始された国内難民のための給水・住居支援プロジェクトは今年に入ってからの新規事業です。

 このほか、瀬谷事務局長が昨年秋にはUNDPケニア事務所からの業務委託を受けてケニアの国際平和支援訓練センター(IPSTC)の2年間の訓練計画を企画、立案しました。また、同事務局長は本年1月から3月にかけても外務省のNGO事業補助金からの一部助成によりスーダンに出張して案件立案のための調査を実施しました。NHKはその様子を取材して4月に「プロフェッショナル 仕事の流儀」で放映しました。このようにして企画、立案された南部スーダンでの子供や若者のための職業訓練事業がJPFの支援のもとに開始されることになり、プロジェクト・コーディネーターの中西美恵さんが近日中に現地に赴任する予定です。さらに、本年5月からは瀬谷事務局長がUNDPからの依頼を受けてソマリアにおける国内治安改善のための情報収集とアセスメント、モニタリングおよび評価手法の構築を実施中です。

 以上に述べたように当センターの海外における事業活動はこの3年間飛躍的に拡大しつつあり、在外代表、日本人職員などの顔ぶれも次第に充実してきています。また、NHKのテレビ番組放映もあり当センターの知名度も格段と高まっています。このような喜ばしい成果は瀬谷事務局長の活力と行動力に負うところが少なくありません。2年前の4月に当センターが同事務局長を迎えることができたのが「大正解」であったのです。

 他方、当センターの活動は未だ発展途上の試行錯誤の段階にあることも否定できない事実です。とくに、海外事業の拡大につれて本部事務局の人員的、財政的基盤の整備が急務となっております。このため、当センターとしましては会員、支持者の確保、拡大にも引き続き力を入れてまいりますので、昨今の経済情勢は厳しい折ですが、皆様方の暖かいご理解とご支援お願い申し上げる次第です。

 末筆となりましたが、来月からの本部事務所の移転先は早稲田大学とフォー・シーズンス・ホテル(椿山荘)の中間の神田川沿いの場所となります。都内で残された唯一の路面電車である荒川線の終点「早稲田」駅のすぐ近くです。麻布十番、湯島もそうでしたが、今回も江戸・東京の伝統文化の情緒が漂う由緒ある土地柄となります。これを機に心気一新して頑張りますので、引き続きご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。

2009.7.17
「核なき世界」と「拡大抑止」とは両立する

「核なき世界」と「拡大抑止」とは両立する

2009.7.17

以下は日本国際フォーラムの政策掲示板「百花斉放」にて7月9日に掲載された私の投稿記事です。


 オバマ大統領は4月5日のプラハでの演説で「アメリカは『核兵器のない世界』に向けての具体的措置として、先ず核兵器の役割を縮小させるが、(他国の)核兵器が存在するかぎり、抑止力としての核兵器は保有し続け、同盟国の防衛を保障する」と述べた。前段は核軍縮への決意表明であり、後段はいわゆる「核の傘」の再確認である。前段の核軍縮についてみると、核兵器の役割を縮小させる努力はブッシュ前政権時代にも2002年のモスコー条約などにより核兵器を大幅に削減する方向で進められてきたし、核兵器への依存度を減らす努力も2001年の核政策の「新しい三本柱」の中で非核攻撃力にも言及するなどして着実に推進されてきた。

 オバマ政権になってからは、プラハ演説でCTBT批准に向けての決意が表明され、7月6日には米露間で新たな核軍縮条約「新START(戦略兵器削減条約)」の枠組みが合意されるなど、取組みが一段と本格化している。後段の「核の傘」については、5月25日の北朝鮮の2度目の地下核実験を受けて行われた電話会談で、オバマ大統領は麻生総理に「核の傘を含む拡大抑止」のコミットメントを改めて確認した。冷戦時代から核兵器の唯一の使い道は、核兵器などによる先制攻撃を目論む相手国に対して核兵器の圧倒的破壊力による報復が避け難いことを悟らせて攻撃を思い止まらせる抑止力としての使い道であるとされてきたが、その「核の傘」である。このように、核兵器は実際に使われる兵器というよりは心理的、防衛的な性格が強い兵器である。効果を発揮するには、相手側が自分自身や国民、国土の安全につき合理的な判断ができることが前提となる。

 守るべき国土や領域もなく、身を隠して、自爆テロも辞さないテロリストのような敵が相手であれば、抑止論は通用しない。独裁国家とかテロ支援国家などはその中間に位置するのであろうが、合理的な判断力があり「核の傘」の抑止力が有効な相手に対しては、これを堅持するというのがオバマ政権の政策である。「核の傘を含む拡大抑止」との表現が意味するものは、核兵器以外の通常兵器も含めたアメリカの圧倒的な軍事力による抑止に他ならない。通常兵器の方が実際に使える兵器という意味で抑止に役立つ場面もあるであろう。そして、アメリカは同盟国に対しては潜在的な敵からの脅威に対する「拡大抑止」を約束しているのであるから、わが国はこれに応えてアメリカとの間の緊密な同盟関係の維持、強化につとめるべきであろう。

 他方、抑止論の枠外の存在であるテロリストに対しては、犯罪者として逮捕、処罰するなどしてその無力化をはかると同時に、彼らが核兵器を入手できないようにする必要があろう。以上のように「核兵器のない世界」に向けての努力と「拡大抑止」の有用性は相矛盾するものではなく、両立するものである。核を減らしながら拡大抑止を堅持することは可能だからである。ところが、以上に述べた状況についての十分な認識がないまま、核兵器を実際に使える最強の兵器であると思い込み、アメリカに「核の傘」の保障を求め、それが保障されない場合には核武装に向かうべきだとする極論も散見されるようであるが、これは認識不足からする短絡的な発想という他はないであろう。

2009.7.3
法政大学の長谷川ゼミで小型武器問題につき講演

法政大学の長谷川ゼミで小型武器問題につき講演

2009.7.3

去る6月29日に法政大学法学部で講演しました。同学部の長谷川祐弘教授は国連事務総長特別代表として東チモールで活躍された方で、当センターの研究会にも2年ほど前に講師として来ていただきましたが、今度は私が同教授の平和構築論ゼミナールで小型武器問題について話をするようにと頼まれました。当日はゼミのメンバーだけでなく法学部1年生の希望者も含め40名以上の学生たちが熱心に聴講してくれ、質疑応答もきわめて活発でした。

 以下は席上配布された講演要旨です。



国連による小型武器問題への取組


1.日本が主導した小型武器問題への取組(1995年〜2003年)

 日本が提案した国連決議により任命された政府専門家パネル及びグループ(いずれも私が議長)の報告書(1997年及び1999年)を基礎にして2001年に国連小型武器会議(その閣僚レベル会合議長も私)が開催され、「行動計画」が採択された。2003年の第一回「隔年会合」の議長は猪口邦子大使がつとめた。

 以上の取組に先立つ「前史」として、国際武器取引を登録する国連軍備登録制度の設立と国連事務総長の軍縮諮問委員会での小型武器論議(いずれも私が関与)があった。


2.小型武器とは何か?

 戦闘員が持ち運べる軍用武器であり、➀小火器、➁軽兵器、➂手投げ弾などの爆発物の三種類からなる。猟銃とか刀剣類は除かれ、車両などで運搬される大型兵器(国連軍備登録制度の登録対象兵器)も除外される。


3.大型武器でなく小型武器が注目されるようになった理由

・第一に、非正規(ゲリラ)戦争で威力を発揮するのに最適な武器であること。

・第二に、紛争地において安価に大量に入手可能で、子供でも使える武器であること。

・第三に、紛争終了後も回収できずに放置されがちな武器であること。


4.小型武器問題解決のための対策

 政府専門家パネル及びグループの報告書をはじめ、数多くの地域会合などで提言が採択されたが、その集大成が2001年の「行動計画」。便宜上、需要サイドに着目した対策と供給サイドに着目した対策とに分けて考える。


5.需要サイドに着目した対策

・DDR(戦闘員の武装解除、動員解除、社会復帰)

・治安制度改革(SSR)

・司法制度の整備、民主化支援

・平和構築のための包括的アプローチ

・以上につき被害諸国への能力強化支援


6.供給サイドに着目した対策

・武器の生産、所持、取引、輸出入などを規制する国内法令の整備

・税関や国境での武器密輸取締り体制の整備

・軍や治安当局による武器や武器庫の安全管理体制の整備

・以上につき支援を必要とする諸国への能力強化支援

・国際的な輸出許可基準の整備、確立 ➔ ATT条約に向けての努力

・武器の刻印制度などによる「トレーシング国際文書」の採択

・非合法なブローカー(仲介)取引の規制に関する政府専門家報告書の採択


7.「行動計画」のフォロー・アップ状況

 上記の「トレーシング国際文書」の採択と「ブローカリング」に関する報告書の採択は「行動計画」の提言の実施であった。「行動計画」のその他の諸提言の実施状況を検討するための隔年会合は03年、05年に成功裏に開催されたが、06年の「履行検討会議」は成果文書の採択に失敗し悪影響が懸念された。しかし、08年の隔年会合で国際社会の力強い決意が再確認され、現在は10年の隔年会合、12年の「履行検討会議」に向けて準備中。また、本年からATTに関する作業部会会合も発足した。


8.国連の平和活動のなかでの小型武器問題の位置づけ

 ブトロス・ガリ元事務総長は「平和への課題」において国連の平和活動には紛争の段階に応じて予防外交、平和創造、平和維持、平和構築などがあるとした。小型武器に関する1995年の最初の国連決議はこのような武器の「過剰で不安定化を招く蓄積」を「予防」し、「削減」するための方策につき報告するよう求めた。このように、当初は小型武器問題は予防外交、紛争予防の観点から重視され、また平和維持段階における武器の回収、破壊などの「削減」の問題として重視された。

 「予防外交」は90年代中ごろから国連第一委員会で活発に議論されたが、その実態は「紛争予防」であり、しかもその殆どは紛争の再発予防に他ならず、平和構築活動に他ならないことから、最近では「平和構築」を中心に議論されるようになっている。

また、平和維持段階における小型武器の「削減」についても、ブラヒミ報告書などでDDRなどの活動は長期的、包括的アプローチを必要とし、平和構築段階と一体化して対処する必要があるとの指摘が行われた。こうしたことから、国連60周年サミットの成果文書は2001年の小型武器「行動計画」をエンドースし、「平和構築委員会」を設置した。


(関連するトピックス:
「全米ライフル協会から目の仇にされる」、「国連最初のDDRセミナー」、「国連総会議長席の座り心地」、「マニラ市警視総監の内話」)

2009.5.11
瀬谷事務局長のテレビ出演

瀬谷事務局長のテレビ出演

2009.5.11

瀬谷事務局長が4月21日のNHKのテレビ番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」に出演しました。 多くの方々に視聴していただき、極めて好評であったことを大層嬉しく思っています。 また、瀬谷さんの飾り気のない、ありのままの人柄を伝え、マイケル君のような一人の若者の支援にも労を惜しまない姿の密着取材に 力を入れた番組製作者者たちの編集方針には大いに感心させられました。

 長年の紛争で甚大な被害を受け、難問山積のアフリカ大陸の現場で一人の若者に手を差し延べる努力はあまりにも小さく、空しいように思われるかも知れません。 しかし、決してそうではありません。地元の関係者でなく国際NGOでなければ出来ない役割といったものも存在しますし、 そのような小さな努力の積み重ねが大きな力となって時代の流れを変えていく可能性も決して否定できないからです。

 すでに10年ほど昔の話となりますが、私は国連の小型武器問題責任者の一人としてDDR(武装解除、兵役解除、社会復帰)構想を作りあげる作業に取組みました。 そのお陰で世界各地での国際会議に招かれましたが、2002年7月にマニラで開催されたセミナーでは市の警視総監の招待で小型武器破壊式典にも参列しました。 その席で警視総監が私に「銃の所持が当たりまえであったこの国で、銃を持つのは良くないことを一般市民に理解してもらうために警察が率先してこのような式典を開く時代が来るとは思ってもいなかった」 と感慨深げに述べたことが忘れられません。

 もちろん、たった一度の式典でマニラ市が銃社会から平和な社会に変貌するほど物事は単純に進むわけではありません。 しかし、潮目が変るように、以前には不可能と思われたことでも次第に現実となることは歴史が証明しています。 国家であれ、個人であれ粗野な力に物を言わせて不条理を通そうとするやり方では「無理が通れば道理が引っ込む」ばかりです。 そこで、ルール作りによってそのようなやり方を次第に息苦しいものとしていく努力こそが紛争予防や平和構築の努力であり、軍備管理・軍縮の努力でもあるのです。 英語で言うところの”norm setting”、 すなわち「規範設定」の努力なのです。

 人間には夢があり、それに向かって努力するからこそ希望があり、進歩があるのだと思いますが、瀬谷事務局長が出演したテレビ番組をみてその思いを強くした次第です。

2009.3.4
武器輸出規制のためのATT以外のイニシアティブ

武器輸出規制のためのATT以外のイニシアティブ

2009.3.4

以下は去る2月27日、28日に外務省とOxfamが共催したATT(武器取引条約)に関するアジア太平洋地域会合に専門家として出席した私が行ったプレゼンテーションの概要メモと配布資料です。ATT問題に多少とも関心のある方々のご参考に供したく思います。この会合は我が国はもちろん、アジア・太平洋の諸国から政府関係者、NGO関係者など50名ほどが参加して行われたものです。


1.全般
 ATT(武器貿易条約)締結に向けてのイニシアティブは通常兵器の輸入、輸出、移転に関する国際共通基準を法的拘束力のある条約として採択するための努力である。当然のことながら、そのような国際基準の設定はそれ自体が目的ではなく、より高い目的達成のための手段に過ぎない。武器の国際取引が無規制のままであれば武力紛争(及び犯罪)の頻発を招き、一般市民が甚大な被害を蒙るので、国際的な共通基準を設けてそのような被害の軽減、防止をはかろうというのがATTの本来の目的である。

 この本来の目的を達成するのにATT締結が有力な手段の一つであることは疑いないが、締結すればそれで事足りるわけではない。条約であるから締約国に義務を課すことはできても、非国家主体による非合法取引までも(国際社会が)直接取り締まる仕組みにはなっておらず、また、条約に署名、批准しない国を拘束することもできないからである。

 その反面、法的拘束力はなくても国際社会が協調、協力して行う政治的な努力により武器取引規制に貢献することは可能である。たとえば、勧告的な国連決議によるものであっても武器に関するデータの登録・公表制度が設立されれば武器取引の規制に役立つことは明白である。実態の把握なくして規制はあり得ないからであり、これは信頼醸成措置、透明性向上措置と呼ばれる政治的努力である。

 また、2001年の国連会議で採択された小型武器「行動計画」も法的拘束力のない政治文書に過ぎないが、小型武器の非合法取引を撲滅するために各国が共同して実施することを約束した「行動計画」であり、それなりの成果をあげている。

 要するに、法的拘束力のあるATT締結に向けての努力と関係諸国が武器取引規制のために協調、協力して行う政治的努力とは車の両輪のようなもので、相互補完、相互補強の関係にあると考えてよい。


2.国連軍事支出報告制度
 信頼醸成措置、透明性向上措置として最初に(国際連盟時代の試みは別として)登場したのが1980年の国連決議で設立された軍事支出報告制度である。1978年の第一回国連軍縮特総で盛り上がった和平ムードの中で、各国の軍事費に関する情報を一定の様式にしたがって国連に毎年報告する制度として設立された。しかし、1980年代を通じて毎年NATO加盟の20国前後が参加するにとどまり、決して成功とは言えなかった。軍事情報は機密が当然とされていた冷戦時代の「あだ花」といったところであった。

 ところが、冷戦終了後の90年代に入り信頼醸成・透明性向上措置の有用性への認識が深まるにつれ参加国数は30前後へと増加した。これが一挙に60国を上回るようになったのは2001年以降のことで、関連する国連決議の共同提案国であるドイツとルーマニアの熱意と努力のお陰であった。それ以降今日まで参加国数は80前後で推移している。

 この報告制度によって申告される情報は陸、海、空三軍の予算とか人件費、武器調達費などであるが、情報の量、質は国によりまちまちである。また、各国の通貨による申告であるため比較が困難で、検証の手段もないのが欠点である。しかし、年数を重ねるにつれて各国の軍事支出の増減などの動向を把握するのに役立つとの利点もある。

 当面の課題はこの制度の質的改善よりも、参加国数を増やして普遍化をはかることであろう。何故なら、通常兵器武器取引を規制するATTを締結するにしても、軍事費に関するこの程度の情報公開にも応じない国連加盟国が半数以上という状態では大きな進展を期待することができないからである。

 当初の80年台はNATO諸国が中心であった参加国が90年代には東欧諸国も含めたOSCE諸国へと広がり、最近では簡素化された報告様式が導入された結果アジア諸国からの参加も10国程度となってきたことは喜ばしい。しかし、参加国数は次に述べる国連軍備登録制度に比べれば未だ少なく、普遍化のための一層の努力が望まれる。


3.国連軍備登録制度
 冷戦終了直後の1990年のイラクによるクウェート侵攻は戦車、戦闘機などの大型通常兵器の無節操な国際取引の弊害を浮き彫りにした。当時の米国軍縮庁の統計年鑑によれは中東諸国への武器輸出の約90%が安保理5常任理事国からのもので、イラクの1983年から1990年の間の武器輸入は約530億ドル、同国の輸入総額の50%以上という常軌を逸したものであった。こうしたことへの反省から1991年にわが国とEU(当時のEC)が共同で提出した国連決議により設立されたのが国連軍備登録制度である。(私自身この制度には設立当時から直接関与してきた。)

 この登録制度により各国は毎年戦車、戦闘機など7種類の大型通常兵器の輸出入の数量(金額でなく)を国連に登録することとなった。簡単、明瞭で登録しやすいことを売り物にした登録制度であった。それでも、透明性増大とか信頼醸成措置の概念は冷戦時代後半の欧州東西間交渉の産物であり、これになじみの少ないアジア、アフリカなどの大多数の諸国、とくにその軍関係者の理解を得るのは決して容易ではなかった。しかし、結果的には1992年の初年度からこの登録制度への参加国数は80国を超えたので、上記の軍事支出報告制度にくらべれば大成功であった。

 この制度への参加国数が100の壁を突破したのは2000年からのことであるが、これは3年ごとに開催される運用検討政府専門家会合(GGE)がこの年から登録対象となる7種類の兵器の輸出入が皆無である諸国は「取引ゼロ」との簡単な書式で登録すればよいとした結果であった。登録対象となる大型通常兵器は毎年30国程度が輸出し、50国程度が輸入するにとどまり、大多数は「取引ゼロ」の諸国であるが、そのような国も含めてなるべく多くの国が登録に参加することの意義が認識されたからであった。

 なお、この制度の普遍化との関連で見落とすことができないのは中国の参加である。中国の初年度からの参加が多くのアジア諸国の参加を促す効果があったことは否定できない。ところが、不幸な事情により1997年からは中国が参加を見合わせるに至った。中国の復帰が実現したのは2006年からであったが、そのことの意義は決して小さくない。

 今後の課題としては、先ずは制度の一層の普遍化が望まれる。最近の参加国数は毎年110数国であり、国連加盟国のうち170国もが少なくとも一度は登録した実績があるのは結構なことであるが、「ゼロ登録」国を含めてさらに多くの国が常連の参加国となることが望ましい。また、アジアでは未参加の北朝鮮、ミヤンマーなどへの働きかけが、さらには中東やアフリカの20国ほどの未参加諸国への働きかけも必要であろう。

 この登録制度の質的内容についてみれば、SIPRI年鑑の統計などから判断して金額的には国際武器取引の95%以上が登録されている計算となり、また、備考欄への型式やモデルの登録も普及していることは評価に値するであろう。加えて、輸出国と輸入国によるそれぞれの登録データをクロス・チェックできる点もこの登録制度の一つの強みであると言えよう。

 しかし、この制度の設立以来懸案とされてきた武器の国内調達と保有に関する「データ」を登録対象に含める問題が未解決のままである。当初から国連加盟国は輸出入に関しては「データ」を登録することを「要請(call upon)」されたのに対し、国内調達と保有に関しては「情報」を登録することを「慫慂(invite)」されてきたに過ぎなかった。後者は前者より義務性が少なく、自発性が高いとの了解であった。この国内調達や保有に関する「情報」を毎年登録しているのは西欧諸国を中心とする20数国で、決して多い数字ではない。この「情報」の登録を国際取引に関する「データ」の登録と同じく義務制の高いレベルにまで引き上げることが望ましいとされてきたのである。

 その理由は、国内調達や保有も取引と同様に扱うのでないかぎり、武器を輸入に頼らざるを得ない国は武器を自前で生産できる国に比べてより多くの情報公開を義務づけられ、安全保障上不利な立場に立たされるからである。さらに、透明性向上の観点からも武器の国際取引だけでなく生産から保有、そして廃棄にいたるまでの全体の流れが把握できるようにすることが望ましいからである。この問題は透明性だけでなく、ATTが目指している武器国際取引の規制にも共通する課題であると考えてよいであろう。

 しかし、現実問題として登録の対象を国内調達、保有にまで拡大できるかとなると、アラブ諸国の多くはイスラエルの核疑惑問題の解決なしにはそのような拡大に賛成できないとしているので、この問題の解決は極めて困難と言わざるをえない。中東和平の進展に期待する他はないかも知れない。

 もう一つの長年の課題は小型武器の取扱いである。登録制度設立直後の1994年頃から小型武器問題が国連で脚光を浴びるようになり、7種の大型通常兵器に加えて小型武器もこの登録制度の登録対象に加えてはどうかとの議論は早くから存在した。結局、2001年の国連小型武器会議の結果待ちとなっていたが、2003年の運用検討政府専門家会合の勧告により希望する国は小型武器の輸出入に関する情報を背景「情報」として自発的に登録することができることとされた。さらに、2006年の政府専門会合ではそのような情報の登録のための標準登録様式も合意された。

 その結果、2007年分については30数国が情報提供に応じ、140国程への200万丁以上の小型武器の輸出が「情報」として登録された。本件制度が本来は数えやすく登録しやすい大型の通常兵器を対象として発足したことを考慮すると、把握し難く登録が面倒な小型武器につきこれ程多くの情報が登録されたことは予想以上の成果であり、時代の要請を反映する前進と考えてよいであろう。

 もっとも、殆どは2000年の域内合意が存在するOSCE諸国からの情報の登録であり、最大の武器輸出国である米国からの情報登録は未だである。また、アジア諸国からの情報提供は2006年分についてはバングラデッシュ、韓国及び国内生産からの調達を報告した我が国だけであり、2007年分についてはブルネイ、インドネシアといったところである。

 今後の課題はこのような小型武器に関する情報登録を如何にして質的、量的に改善していくかであろう。


4.国連小型武器「行動計画」
 2001年の国連小型武器会議開催に際しては法的拘束力のある文書の採択を目指すべしとの意見が西欧諸国やアフリカ、ラ米諸国の間には根強く存在したが、結局は政治的な文書としての「行動計画」が全会一致により採択された経緯がある。(私自身はそれに先立つ政府専門家会合当時から最近まで小型武器問題にかかわってきた。)

 ところが、各国はこの「行動計画」の第Ⅱ章第11項で小型武器の輸出を許可するに際しては国際法上の義務に準拠した厳格な国内的な規則、手続きにしたがってこれを行うことを約束したのであるから、輸出許可の国際基準を明確にするためのATTの締結はまさに「行動計画」により各国が約束した努力であると言ってよい。

 もっとも、そのことは「行動計画」で約束された他の政治的約束の実施を後回しにしてよいことを意味せず、むしろ同時並行的に実施することがATTの締結促進にもつながることは冒頭で指摘したとおりである。 現に、小型武器のトレーシングに関する国際文書が2005年の国連総会で採択され、2007年にはブローカリングに関する政府専門家グループの報告書が採択されたが、これは「行動計画」の着実な実施であり、前進に他ならない。また、2003年、2005年と開催された隔年会合も有意義な成果をおさめた。

 ところが、「行動計画」採択5年後の2006年に開催された再検討会議はなんらの成果文書も採択できないという残念な結果に終わった。このため、「行動計画」への国際社会の熱意や関心も失われるのではないかと大いに懸念された。しかし、幸いにして昨年開催された第3回隔年会合でそのような懸念は一掃される結果となった。これまでの記録を上回る100以上の国から提出された国別報告書を基礎に充実した討議が行われ、取り上げられた四つの議題について「今後の道筋(The Way Forward)」を含む成果文書が圧倒的多数の賛成で採択されたからである。これは、失敗を繰り返してはならないとする参加諸国の強い決意とチクリス議長のすぐれた指導力のお陰であった。

 今後の予定としては、周知のとおり、昨年暮れの国連総会でのわが国などの共同提案決議の採択により2010年に第4回隔年会合が開催され、また、2011年までにオープン・エンドの政府専門家会合を開催の上、2012年には再検討会議が開催されることが決まっている。したがって、今後は各国による「行動計画」のさらなる実施に加え、明年からの3年間に開催される一連の国連会議の成功に向けての努力が必要となるであろう。

 最後に、見落としてはならないのは、「行動計画」とは一見無関係であるかのような国連の平和構築活動の多くが実質的には国連小型武器「行動計画」に添ったものであることである。今日の平和構築活動の重要な部分を占めるDDR活動(武装解除、動員解除、社会復帰――その関連ではSSR「治安部門改革」も同様)の重要性が最初に認識されたのは2001年の国連小型武器会議に先立つ小型武器政府専門家パネル及びグループの報告書作成の過程においてであった。その過程での問題提起もあり、国連PKO局や各国がDDRに関するシンポジウムを主催するようになり、1999年7月には安保理会合でもこれが討議され、議長声明も発出された。

 他方では、同じく90年代中頃から関心が高まるようになった「人間の安全保障」問題の論議においてもDDRが言及されるようになり、2005年の国連創立60周年サミットの成果文書による国連平和構築委員会設立となったことは周知のとおりである。また、それに関連して、このサミット成果文書では小型武器「行動計画」への支持も言及された。

 このように、「行動計画」の中で各国が小型武器非合法取引を撲滅するために約束した活動の多くが今日では平和構築活動の一環として実施されるようになっている。しかし、これは「行動計画」の権威を損なうものではなく、むしろ「行動計画」の実施を補強し、強化するものであると理解するべきであろう。
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2009.1.29
オバマ政権発足と期待される核軍縮の進展

オバマ政権発足と期待される核軍縮の進展

2009.1.29

以下は、日本国際フォーラムの政策掲示板「百花斉放」に1月28日に掲載された私の投稿記事です。


 アメリカの軍縮問題月刊誌『Arms Control Today』の最新号(2008年12月号)でオバマ大統領が核軍縮政策を一問一答形式で論じている。大統領に選出される直前のインタビューではあるが、方向性は明確に打ち出されている。「最大の目的は核兵器が使われないようにすることであり、核兵器保有もそのためである。新しい核兵器の開発は許可せず、核兵器の究極的廃絶を目標とし、CTBT(包括的核実験禁止条約)の早期批准を上院に働きかける。他方、今日の最大の脅威は核兵器物質がテロリストの手に渡ることで、その防止のための予算を増やし、PSIの強化などで他の諸国とも協力する。ロシアとの間ではSTART Iが本年末に失効する前に実質的延長に合意する」等々である。当然のことながら、「核軍縮の失われた10年」を取り戻したい、との米国民主党の意気込みが伝わってくるようである。

 興味深いのは、この同じ月刊誌にセルゲイ・キスリャック新駐米ロシア大使のインタビュー記事も載ったことである。駐米大使の前は外務次官であったが、1996年12月には京都で4日間開催された核軍縮セミナーにロシア外務省軍縮局長として来日したこともある。その他にも何度か会う機会はあったが、私はこのセミナーの議長をつとめたのでよく記憶している。アメリカのジョン・ホラム軍縮庁長官(当時)との間で理路整然とひけをとらぬ論戦を展開し、それでも「ねあか」で好感のもてる人柄が印象的であった。当時もアメリカは民主党政権で、核軍縮への期待が大きく高まった時期であった。それだけに、今回のオバマ政権発足に先立ってのキスリャック大使の赴任は、さすがにといった感じである。

 なお、1996年はクリントン大統領が第2期の大統領選挙で勝利をおさめた年であったが、その前年にはNPT条約が無期限延長され、上記の京都セミナーはわが国が同条約の強化された再検討プロセスを成功に導くために企画、開催したものであった。1996年といえば、核軍縮に関するキャンベラ委員会報告も発表され、CTBT条約も署名されるなど、核軍縮への期待が大いに高まった年である。しかし、その後1998年にはインド、パキスタンによる核実験があり、1999年には米国上院で共和党の反対によりCTBTが批准されないなど、民主党政権は屈辱的な挫折を味わった。失敗を繰り返すことは避けたいであろう。

 キスリャック大使は上記の記事で、アメリカによる東欧諸国へのミサイル防衛施設の配備に強い懸念を示しながらも、START Iの年内の実質的延長には賛成としている。他方、オバマ大統領は、来年5月のNPT運用検討会議を前に、CTBT条約批准に意欲を示している。核軍縮への機運は十分にもり上がっている。核軍縮は米国以外の核兵器国の意向も重要であり、仮に米・露による核兵器削減が進んだとしても、他の核兵器国や事実上の核兵器国を取り込むことができなければ、問題は解決しない。したがって、非核国であるわが国の貢献の余地は少ないように思われがちである。しかし、オバマ大統領も強い関心を示しているCTBT条約の発効とか、PSIの強化となると、わが国が従来から積極的に役割を果たしてきた分野である。また、昨年9月に川口元外相と豪州のエバンス元外相を共同議長として発足した核不拡散・核軍縮に関する国際委員会も来年のNPT運用検討会議を前に報告書をまとめるとしているので、わが国による貢献の余地は決して少なくないであろう。

2008.10.6
第14回通常総会を終えて(JCCPの近況ご報告)

第14回通常総会を終えて(JCCPの近況ご報告)

2008.10.6

 一昨年と昨年に続き、年度なかばのこの時期に通常総会の結果をふまえてこの掲示板で当センターの近況につきご報告するのが私の役目のようになってきた。昨年は「活気を取り戻したJCCP」との副題をつけたので、今年は「さらに活気が出てきたJCCP」とか「育ちざかりのJCCP」とでもしたいところだが、言葉あそびは差し控える。

 前年度の事業報告や収支決算を承認するための当センターの通常総会は今年は9月4日に開催され、明石会長が議長をつとめた。その少し前の8月13日の朝日新聞の「ひと」欄に瀬谷事務局長が紹介されたので正会員への総会開催案内状にもその記事を添付したが、この報道が当センターの知名度を高めてくれたのは喜ばしいことであった。

 今回の通常総会での嬉しい出来事は目加田説子中央大学教授が新理事に選任されたことである。同教授は1990年代後半から地雷廃絶日本キャンペーン(JCBL)運営委員としてオタワ対人地雷禁止条約締結などのために活躍され、また、国境を越えるNGO・NPO活動の研究家としても著名な方である。私もかねてから名声は伺っていたが伊勢崎賢治理事(東京外国語大学大学院教授)からの推薦もあり今回の理事就任が実現した。

 市民社会が平和と安全保障の分野で果し得る役割は97年の対人地雷禁止条約締結、98年の国際刑事裁判所(ICC)設立条約締結などで注目を浴びるようになったが、これは同じ頃に私が関与した国連の小型武器問題への取組においても顕著であった。将来的には紛争終了地域での平和構築活動における文民の役割が一層重要性を増していくものと予想されるので、目加田教授の理事就任により当センターの役員の顔ぶれが刷新されただけでなく、当センターの新しい力となっていただくことを期待したい。

 なお、伊勢崎教授に言及した序でとなるが、9月22日発行の朝日新聞社週刊誌AERAの「現代の肖像」欄で同教授のこれまでの紛争解決分野での実績がやや詳しく紹介され、この記事も多くの人々の関心を呼ぶこととなった。当センターとの関係も紹介されており、同教授とは当センター設立当時から色々な場面で度々一緒に仕事する機会があった私としても嬉しく思った次第である。 また、今回の通常総会は盛り沢山で、今後当センターの在バルカン地域代表を引き受けていただくことになった松元洋氏と、新しく在ケニア代表としてナイロビに赴任する直前であった高井史代さんの就任挨拶も行われた。

 松元氏は私の長年の友人であるが、10年ほど前にUNHCR(難民高等弁務官)事務局を退職の後JARC(日本緊急行動センター)を設立してその専務理事となられ、マセドニアの事務所を拠点に手広く各種の人道支援活動を行ってこられている。私はJARCの設立当初から名目上の理事長をつとめてきた。ところが、最近になって外務省からJARCは本邦に事務スタッフが不在なため助成事業の実施に際して不便なことがあるとして、私が双方の理事長を兼ねているのであれば同省が助成する事業に関しては松元氏を当センターの現地代表に任命するなどして業務を一本化してはどうかと打診してきた。松元氏の在バルカン地域代表就任はこのような事情によるものであるが、バルカン地域での人道支援活動は民族和解、平和構築活動とも密接な関係があるので、当センターの活動が実質的にこの地域にも拡大していくことが期待できよう。

 高井在ケニア代表はこれまでもアンゴラ、ケニア、ルワンダなどでUNV、JICA、NGOなどのいろいろな身分で活躍してきた実績があるだけでなく、当センターの活動にも何度か参加した経験もあり、当センターの在ケニア代表としてはまさに適任な方である。9月下旬にはナイロビに赴任したのであるが、真っ先に取り組んでもらっているのが事務所設立作業と、当センターが現地ユネスコ事務所と共同で行う「紛争予防・平和構築分野で活躍するNGOの能力強化・ネットワーク支援事業」の立ち上げである。

 このユネスコとの共同事業の対象国はケニア、ウガンダ、スーダンなどの東部アフリカ9カ国であり、主たる目的は関係諸国のNGO職員から選ばれた人たちを能力強化指導員として養成すること、NGO相互間ならびにNGOと国際機関や外国の支援機関との間のネットワークを構築することである。ユネスコと言えば誰でも世界遺産のことを思い浮かべるが、このような平和構築分野での事業は初めてとのことであり、当センターがこの共同事業のパートナーとして選ばれたことは大層光栄なことである。

 そもそも、ユネスコが国連に次いで1945年11月という早い時期に設立されたのは平和及び安全に貢献するためで、国連が扱う軍事・政治以外の教育・文化面などでの貢献が期待されたからであった。このことは「戦争はひとの心の中で生まれるものであるから・・」との有名な文言ではじまるユネスコ憲章の前文及び第一条の文面からも明らかである。当時と違って国家間の平和や安全だけではなく人間の安全保障も重視されるようになった今日の世界においては、暴力や紛争、戦争の文化でなく平和の文化の普及、平和の構築にユネスコが真剣に取り組むのは当然のことであろう。当センターとしてもユネスコの期待に応えてこの共同事業を成功させるべく全力を尽くす必要がある。

 最後となったが、高井代表のナイロビ着任とほぼ時期を同じくして当センターの瀬谷事務局長もナイロビ入りし、今月末まで滞在予定である。同事務局長は当然のことながら現地での事務所設立とユネスコとの共同事業の立ち上げを手伝うこととなるが、今回の出張の主たる任務はUNDPケニア事務所の委託によりナイロビのPKO訓練センターの研修実施計画と能力強化支援策を策定することである。これは本年1月に高村前外務大臣が「平和の創り手『日本』」と題する演説の中で「このたび初めてやり方を工夫し、アフリカ各地のPKOセンターへの日本の支援が回るように致しました」として発表された新政策(本年2月1日の理事長掲示板記事「アフリカと向き合う」参照)が実施に移された結果にほかならない。上に述べたユネスコとの共同事業も同じである。 このような日本政府のアフリカにおける新政策は、本年5月の横浜でのアフリカ開発会議(TICADⅣ)を念頭に打ち出されたものであるが、その策定にあたっては当センターの協力も求められ、瀬谷事務局長が昨年夏に現地調査に出張するなどしたことが記憶に新しい。当センターを含めNGOと政府との関係は無批判な政府追従でありえないことは当然であり、是々非々の態度をつらぬく必要があるが、民間側が比較優位の立場からODAの有意義な使い方などにつき政府に助言、協力することは可能であり、有益でもある。それが生かされたのが今回の事例であると考えてよいであろう。

 以上のように、昨年の今ごろと比べて当センターの活動が一層活気を帯びていることは明らかであり、嬉しいことである。ナイロビにおける事務所開設とユネスコとの共同事業の開始に示されるように、当センターのアフリカにおける活動もいよいよ本格化しつつある。現在の時点では瀬谷事務局長に加えて人員的には純増の高井在ケニア代表もナイロビで活動中であるので、むしろ東京本部の陣容が若干手薄になっている。

 当センターの現在の姿を例えてみれば、育ちざかりの青少年のようなものかもしれない。成長するにつれて活動範囲が広がり、資金繰りでは余裕が乏しくて苦しくても、現場での経験と実績の積み重ねが何よりの成長の糧となっているように思われる。そうは言っても、必要最小限の資金的手当の確保は最優先課題である。事業資金確保はもちろん、寄付金収入や会費収入を増やして財政的基盤強化をはかる必要があることは言うまでもない。したがって、毎回のことであるが、会員各位を含め、当センターの活動を応援してくださる方々の暖かいご理解とご支援をお願いする次第である。

2008.9.19
米印原子力協定の成立をどう評価するか?

米印原子力協定の成立をどう評価するか?

2008.9.19

 以下は日本国際フォーラムの政策掲示板「百花斉放」に9月11日に掲載された私の投稿記事です。

 7月18日付け「百花斉放」に掲載された拙稿「米政権交代待ちの核軍縮をめぐる諸課題」で私は「ブッシュ政権在任中の米印原子力協定の成立は時間切れの様相が強まった」と書いたが、その後2ヶ月足らずの間に残された三つのハードルのうち2つまでがクリアされるという予想外の急展開がみられた。先ず、IAEAとの間の特別保障措置協定締結については、インドのシン首相はこれに難色を示していた左派諸党の代わりに他の諸党と連立政権を組むことにより、政局の危機を乗り切り、無事協定を締結し、IAEA理事会の承認も取り付けた。次いで、一層難しいとされていたNSG(原子力供給グループ)45国のコンセンサスによる「例外化」の承認についても、8月の20、21日、さらに9月4、5日に臨時総会を開催し、さらにその会期を翌6日まで延長して、最後まで躊躇していたニュージーランドなどの数カ国を説得して、承認を取り付けた。

 残された最後のハードルは米議会による承認である。今回の交渉の基礎となっている関連国内法によれば30日間の審議日程が必要とされているが、大統領選挙との関係で米議会の開催予定日は9月8日から26日までの3週間しかない。短縮された審議日程で承認できるようにするには別途の議決を上下両院とも必要としている。このように若干の波乱要因はあるものの、米議会で承認される可能性は極めて高いと考えてよいであろう。

 NSGがNPT条約に加盟していないインドとの原子力協力の「例外化」を承認したことに対してはマイケル・クレポン(スティムソン・センター)、ビル・ポッター(モントレー研究所)などの核軍縮の大御所たちが続々と悲憤慷慨の声をあげており、わが国の主要各紙の論調もほぼ同様である。核兵器国を増やさないためのNPT条約の恩典を同条約の非加盟国で、しかも核兵器を保有するにいたったインドに認めるのは、NPT体制の自己否定となりかねないからである。また、5核兵器国のうち中国を除く露、仏、英も異を唱えなかったのは商業的利益優先ではないか、との批判が出るのも自然なことであろう。

 しかし、嘆くばかりでは明るい展望は開けない。米印協定が成立した場合の積極的利点を見出す努力も必要であろう。先ず、今回の合意の結果、温暖化対策でインドの協力を得やすくなる面があることは否定できない。核不拡散に関しては、インドが部分的ながらもIAEAの保障措置を受け入れ、NPT不拡散体制に協力するようになることの意義は決して小さくない。悪しき先例とならないかの懸念に関しては、これまでの実績からも、インドは不拡散に熱心であるが、パキスタン、イラン、北朝鮮などのためにアメリカがNSGの承認取り付けに奔走することはあり得ず、その心配はないであろう。さらに、インドは核実験自粛のモラトリウムを維持するとしており、これがNSG総会の場での発言を含めて、どこまで法的な約束であるかは議論の余地があろうが、明年以降は政権交代後のアメリカがCTBT(包括的核実験禁止条約)批准に向けて動き出し、この問題でのインドに対する説得力が一段と強まることを期待したい。

2008.7.24
秋野豊氏が遺したもの

秋野豊氏が遺したもの

2008.7.24

国連タジキスタン監視団の政務官として殉職された秋野豊氏の没後10周年記念シンポジウムが秋野豊ユーラシア基金の主催で7月18日に開催され、私も聴衆の一人として参加した。当センターの瀬谷事務局長が総合司会をつとめ、私が40年近くも前からよく存じている木村汎北海道大学名誉教授も第2部の司会をされるというので参加したのであるが、それ以上に、平和構築分野での日本人先駆者としての秋野豊氏の足跡を他の参加者たちと一緒に偲び、讃えたいとの気持が強かったことも事実である。

 秋野氏が殉職されたのは10年前の7月20日であったが、その頃、私は国連で小型武器政府専門家グループの議長をつとめると同時に、国内では日本国際フォーラムが笹川平和財団の助成を受けて発足させた予防外交国際研究グループの座長もつとめていた。予防外交研究グループのメンバーたちは誰もがこのあってはならない悲劇の報に大きな衝撃を受けるとともに、タジキスタンでの和平の実現のために尊い命を捧げられた秋野氏の業績を日本人として誇り高く思ったのであった。

 この研究グループの3年にわたる活動の報告書はその後「予防外交入門」として出版され、その中でも記したことであるが、従来は日本人の間では前大戦への反省から一切の武力紛争がらみのことから距離をおくのが日本独自の平和主義であると考える傾向が強かった。しかし、世界の情勢は大きく変化し、国家間の戦争よりも国内紛争が頻発するようになり、欧米諸国の間では政府だけでなく市民団体もそのような紛争の予防や平和の構築に進んで協力する時代となった。そして、わが国も平和のために積極的に貢献することが求められるようになった。わが国でも1992年には国際平和協力法が成立するなどして国連平和活動への自衛隊の参加の道が開かれた。しかし、わが国の市民社会レベルでの意識改革は未だかなり遅れていた。

 こうした中で、1993年のカンボジアの選挙監視活動での国連ボランティア中田厚仁さんの不慮の死、そして1998年のタジキスタンでの和平活動に従事しておられた国連政務官秋野氏の殉職はわが国の市民社会レベルでも強い共感を呼び、世界の平和と安全のために尽くすことは立派なことであるとの意識を格段と高める効果があった。

 そのような世論の新しい風を背景に、一年後の1999年7月には政府、財界、有識者など各界各層のご理解とご支援のもとに当センターの前身である日本予防外交センターが設立された。そして、当センターはその年から紛争予防市民大学院講座を7年間連続して開催したのであるが、毎回応募者が殺到し、大層好評であった。これは秋野氏の遺したものがいかに大きかったかを示していた。

 その後の趨勢としては、「紛争予防」と言っても実際には殆どが紛争の「再発予防」であり、紛争終了後の再発予防であればブトロス・ガリ元国連事務総長の「平和への課題」以来論議されてきた「平和構築」に他ならないことから、用語としては「平和構築」が一般的に用いられるようになった。そして、東京外国語大学、広島大学など多くの大学で平和構築関連の講座が設けられるようになった。さらに、昨年度は外務省も「平和構築分野の人材育成のためのパイロット事業」を広島大学に委託して実施し、日本人だけでなくアジア各国の人たちをも対象とする研修事業を行なったが、このパイロット事業は今年度も引き続き実施されている。


 以上に述べたように我が国において平和構築活動に関心を示す人びとの層は着実な広がりをみせている。今回のシンポジウムで早稲田大学の小野記念講堂の236席がほぼ埋め尽くされるほどの盛況であったこともこれを裏付けている。言うまでもなく、これには秋野氏のご遺志を継いで後につづく若者たちを励まそうと「秋野豊ユーラシア基金」を設立してくださった秋野洋子様のご厚意も少なからず貢献している。同基金による秋野賞の受賞者は1999年から始まって10回目の今年で24名に達したとのことである。これを記念してこのほど主として受賞者たちによる著書「ユーラシアの紛争と平和」が明石書店から出版されたが、これも大層喜ばしいことであった。

 なお、私はうかつにもシンポジウム第2部の「パネル・ディスカッション」を司会された木村汎先生と秋野氏の関係をよく承知しなかったのであるが、先生にお尋ねしたところ、秋野氏は北海道大学スラブ研究所で先生の弟子であっただけでなく、在モスコー日本大使館の専門調査員としても先生の後輩であったことから、少々責任も感じておられるとのことであった。実は、1970年代のはじめであったが、ロシヤ政治思想史の権威として著名な京都大学の勝田吉太郎教授に続く第2代目の専門調査員を木村先生に引き受けていただくようお願いに札幌まで足を運んだのが当時外務省の一課長であった私であった。先生にはそれ以来親しくさせて頂いており、数年前に先生が編纂され、世界思想社から出版された「国 際危機学」の一つの章の執筆を私がお引き受けしたこともある。このようなことから、木村先生を介してのことではあるが、秋野氏は私にもいわば扉一つ向こうの身近な存在であったことになる。

 最後に、我田引水で恐縮だが、このシンポジウムは当センターとしても誇りとすることのできる行事であった。まず、当センターの瀬谷事務局長の総合司会ぶりについて木村先生から大層なお褒めの言葉をいただいたことが私としては嬉しかった。さらに、同事務局長と第1部の「報告」で報告者の一人をつとめた広島大学の上杉勇司准教授はともに第2回秋野賞受賞者であるだけでなく、当センターの第2回紛争予防市民大学院講座の卒業生でもあることが、偶然とはいえ、誇らしく思われた。言うまでもなく上杉准教授は平和構築分野の研究での第一人者としてよく知られており、数多くの著書や論文も発表しておられる。また、瀬谷事務局長も昨年4月に就任以来当センターの事業活動の拡大と発展、とくにアフリカでの新規事業の推進で目覚ましい活躍ぶりをみせている。真に世界の平和に貢献するこのような活躍こそが秋野氏が日本人の同胞、後輩たちに託した夢であったことは疑う余地もないであろう。

2008.7.22
米政権交代待ちの核軍縮をめぐる諸課題

米政権交代待ちの核軍縮をめぐる諸課題

2008.7.22

以下は日本国際フォーラムの政策掲示板「百花斉放」に7月18日に掲載された私の投稿記事です。



 アメリカの共和党のマッケーン大統領候補が5月27日の演説でCTBT(包括的核実験禁止条約)批准問題の見直しもあり得ると言明したことから、オバマ氏、マッケーン氏のどちらが大統領となっても核軍縮が多少は活気を取り戻す見通しとなってきた。加えて、いくつかの核軍縮に関連した国際案件がアメリカの大統領選挙と連動している。

 第一は朝鮮半島の非核化問題である。6月27日に米政府は北朝鮮のテロ支援国指定解除と対敵取引法適用免除の手続きを開始したと発表したが、ブッシュ政権としては任期終了前に北朝鮮の核放棄を達成したいところであろう。しかし、洞爺湖サミットでブッシュ大統領が福田総理に述べたように、まずは北による核計画の申告が厳密に検証されることが前提となる。この第二段階の諸措置が完了すれば、核兵器の完全な放棄などの第三段階となる。もちろん、北の完全な核放棄が最大の目標ではあるが、2005年9月の六カ国合意は全体が一つのパッケージであり、拉致問題の解決なくして日朝国交正常化はありえず、合意全体の履行もありえない。今後数ヶ月間ですべてを達成することは難しく、結局はアメリカの次期政権待ちとなり、北による時間稼ぎが奏功しただけに終わる可能性が大である。

   第二はイランの核問題である。イランによるウラン濃縮活動があと1年も続けば核兵器保有も可能となることから、イスラエル国内ではこれを阻止するためには核施設への先制攻撃しかなく、そのタイミングはアメリカの大統領後継候補者が誰も頼りにできないので、ブッシュ政権の在任中以外にない、との論議が強まっている。さらに、米国を味方とするには大統領選挙の前と後でどちらが有利かも論議されているとのことで、イスラエルにはイラク、シリヤへの先制攻撃の「前歴」があるだけに、大いに心配すべき状況である。

 第三は民生用原子力協力に関する米印交渉である。2007年7月に米印間で合意された協力協定が米議会で承認されるためには、インドとIAEAの間で特別の保障措置協定を締結してIAEA理事会の承認をえる必要があり、さらにNSG(原子力供給国グループ)45カ国のコンセンサスによる例外化の承認が前提となっている。ところが、大詰めを迎えているIAEAとの交渉について、インドの左派諸党が「国民的討議なしに決着させるのであれば、連立与党から離脱する」として、政局は危機を迎えているようである。洞爺湖サミットでのブッシュ大統領とマンモハン・シン首相との会談では、交渉妥結への決意を確認し合ったとのことであるが、NSG年次総会はすでに5月にベルリンで開催済みであり、米議会も今年は大統領選挙で早めに夏休み入りをすることから、時間切れの様相が強まっている。

 二大政党制のアメリカでの4年ごと、或いは8年ごとの政権交代では行政府の上層部人事も大幅入れ替えとなり、政治の停滞と多大な時間とエネルギーの損失が避けられないのだが、その反面、時計の振子のように行き過ぎを是正し、立ち止まって見直しを行う貴重な機会でもある。少なくとも核軍縮政策に関してはそのような好機の訪れとなる。核軍縮はアメリカだけでなく国際社会全体の問題で、核兵器使用の可能性がかぎりなくゼロに近い世界の実現が大多数の人々の願いでもある。新しい決意のもとに各国の実務者、有識者など幅広い人々の叡智を結集して上記の諸問題の抜本的解決をめざす好機でもあろう。

2008.5.23
紛争予防と平和構築――世界平和への日本の貢献のあり方

紛争予防と平和構築――世界平和への日本の貢献のあり方

2008.5.23

以下は表記の題名で『世界平和研究』2008年春季号、通巻177号に掲載された私の小論です。

 今日における「世界平和」の意味は国家だけでなく人間の安全保障をも含む新しい概念へと変化してきています。そのような「世界平和」への日本としての、また日本人としての貢献はどのようなものであるべきでしょうか?x1

 答えの一つがアフリカにおける紛争の再発予防と平和の定着、構築への貢献を行動で示すことにあることは疑う余地がありません。本年がアフリカ開発会議(TICAD IV)が開催される年であることを一つの契機として、当センターもナイロビに在外代表事務所を開設してそのような活動に本格的に取り組むことになりました。

 この小論は以上のような事情をご理解いただく上で参考に資するものと存じます。なお、このホームページに転載することにつきましては事前に『世界平和研究』編集部のご了解をいただきました。

1.「戦争」でなく「紛争」の予防、再発予防、と平和構築
 私がジュネーブの国連軍縮会議代表部大使として赴任した1989年9月はベルリンの壁が崩壊し、冷戦時代が終了する直前であった。冷戦時代の軍縮の最重要課題は核軍縮と米ソ間の核戦争の回避であった。そして91年にソ連が崩壊すると、米ソ間の核戦争、あるいは大国間の戦争の可能性はほとんどなくなった。冷戦終了後は、91年の湾岸戦争などを別とすれば国家間の戦争はほとんど起きていない。SIPRI年鑑(ストックホルム国際平和研究所発行)の統計によると 90年ごろの武力衝突件数(年間死者数が1000人を越える紛争を武力衝突とする)は年間30件ほどであったが、98年には27件、そして06年には17件にまで減少した。この間、全体で57件の武力衝突が発生したことになるが、その中で国家間の戦争はわずか4件で、それ以外はみな国内紛争であった。軍縮大使であった私が「戦争」ではなく国内「紛争」の予防とか再発予防、そして国内紛争で使われる小型武器の軍縮問題にかかわりを持つようになったのはこのためであった。

 このような国内紛争に対して当初は国連が平和維持軍を世界各地に派遣するなどしてその解決を試みた。しかし、ゲリラ相手の国内紛争は非対称戦争であるので先進国から派遣される平和維持軍も不得手であり、次第に息切れするようになった。紛争が発生してからの対応では和平実現に多大な困難が伴い、復興にもお金がかかる。「予防は治療にまさる」ことから、紛争を未然に防ぐ「予防外交」(preventive diplomacy)に力を入れようとする機運が生じてきた。その結果、90年台を通じて予防外交は国連の場を中心に活発に議論されることとなった。

 言うまでもなく、このような予防外交論議のきっかけとなったのはブロトス・ガリ国連事務総長(当時)が92年に発表した『平和への課題』(Agenda for Peace)であった。この中で同事務総長は平和達成のために必要とされる予防外交、平和創造(peacemaking)、平和維持(peacekeeping)、平和構築(peace-building)の4種の活動のあるべき姿を提示した。しかし、「予防は治療にまさる」として90年代を通じて最も活発に議論されたのが予防外交であった。

 ところが、90年代の終わり頃からは、「予防外交」と言っても「戦争」よりも「紛争」の予防が中心であり、しかも政府の活動のみならず民間NGOの活躍の場も少なくないことから「紛争予防」(conflict prevention)と呼ぶのがより適切であるとしてこの用語が多く使われるようになった。さらに、2000年代に入ると、「紛争予防」といっても新たに起こる紛争の予防よりも「紛争再発予防」が中心であり、これは紛争終了後の「平和構築」と同じであることから「平和構築」との用語が一般的に使われるようになった。このように、使われる用語も年月の経過とともに3段階で変化してきた。

 以上のように、冷戦終了後のこの20年ほどはもっぱら国内紛争への対応の見地から紛争予防とか平和構築の問題が活発に論議されてきた。これは、伊藤憲一氏が『新・戦争論』(新潮新書)で指摘したように「戦争の時代」が終わり、「不戦の時代」あるいは「紛争の時代」が訪れたことを物語っている。そもそも戦争は1929年の不戦条約(ブリヤン・ケロッグ条約、注1)によって禁止されたのであるが、当時これを批准したのは十数カ国だけであった。その後、第二次世界大戦後には国連憲章で戦争禁止が明記された(国連憲章第2条第4項、注2)。唯一認められたのが「自衛のための戦争」であり(国連憲章第51条)、国連憲章制定後冷戦終了時までの戦争はすべて自衛の名目で戦われてきたことになる。

 ところが、冷戦後の世界は米国一極支配の構造となり、自衛の名目であっても米国と戦争をする相手国がいない「不戦の時代」となった。国家間の「戦争」はほとんど起こらなくなったが、政府対反政府ゲリラなどの非政府主体(Non-state actor)との「紛争」は依然として頻発するので、これをいかにして予防するか、あるいは再発を予防するか、そして平和を構築するかが今日の世界における「平和の課題」なのである。

2.小型武器管理が平和構築の出発点
 冷戦後の世界で多発する「紛争」では数多くの一般市民が犠牲になってきた。アンゴラ内戦(92-94年)やソマリア紛争(91-94年)ではそれぞれ約100万人が、ルワンダ内戦(94年)では約80万人が犠牲となった。主として小型武器を使用する紛争であり、小型武器こそが事実上の大量破壊兵器であることが認識された。そこで、紛争予防の見地からまず小型武器問題が取り上げられた。つまり、紛争予防と小型武器問題とは切り離して考えることができなかったのである。

 国連における小型武器問題の審議は96年以降私が議長をつとめた「国連小型武器政府議専門家パネル」および「小型武器政府専門家グループ」で4年間にわたり徹底的に行われ、二つの報告書にまとめられた。その成果をふまえて2001年には閣僚レベルの国連小型武器会議が開催され、「行動計画」が採択された。

 この「行動計画」では紛争終了地での小型武器対策の一つとしてDDRと呼ばれる取組が勧告されている。これは①武装解除(Disarmament)、②動員解除(Demobilization)、③元戦闘員の社会復帰(Reintegration of former combatants)の三つの頭文字を合わせたものである。政府側の兵士のみならずゲリラなど非政府組織の戦闘員からも武器を回収し、身分的にも軍の組織から離脱させて兵士でなくするプロセスであり、これが武装解除と動員解除である。そして、第三段階として、そのような元戦闘員を無一文で手に職もないまま放り出すと社会の不安定要因となるので、彼らの社会復帰を支援するのである。

 今日では「紛争予防」よりも「平和構築」との用語が多く使われるようになっており、DDRは「平和構築」活動の中でも中心的な活動とされているが、このように経緯的にみればDDRは小型武器問題への取組の中から生まれてきた用語である。

 しかし、真に紛争の再発を予防し、平和を構築するためにはDDRだけで十分というわけにはいかない。DDRの後に、その社会が自分たちの力で治安を守れるという治安制度の確立が必要になる。民主的な文民警察官の育成を含む治安制度改革(SSR、Security Sector Reform)である。武器が安全に管理され、住民が安心して生活できる社会、これが平和構築の出発点である。さらには刑法、刑事訴訟法、民主制度の整備などにより「よき統治体制」の確立を図る必要もある。暴力や武器はご免だとする「武器の文化」から「平和の文化」への意識改革も必要となる。このように、平和構築は新しい国づくりのようなものであるから、包括的アプローチと根気強い努力を要する作業となるのである。

3.「人間の安全保障」の視点の重要性
 以上のような小型武器、紛争予防、平和構築の問題と平行して90年代中頃から活発に論議されるようになったのが「人間の安全保障」の問題である。国家間の戦争の時代でなく国内「紛争」の時代となると、国家の安全保障もさることながら、紛争の被害者となる一般市民の、つまり国家ではなくて「人間」の安全保障が重視されるべきであるとの考え方である。

 国連開発計画(UNDP)の94年版『人間開発報告書』が最初に「人間の安全保障」の重要性を喚起したのは、それに先立つアンゴラ、ソマリア、ルワンダなどの紛争で被害の深刻さが問題となったからであろう。しかし、「人間の安全保障」を問題とする以上は、これが戦争や紛争の恐怖だけでなく、犯罪や自然災害も含むすべての恐怖からの自由、さらには欠乏からの自由なども含めた幅広い概念であることは当初から認識されていた。 ところが、90年代の後半になると「人間の安全保障」をこのように広く解釈するのか、それとも破綻国家での内乱の犠牲者などを国際社会は「保護する責任」があるとしてやや狭く解釈するのかをめぐって先進諸国と途上国の間で見解の対立が生じた。特に、幅広い市民団体の後押しで97年のオタワ対人地雷禁止条約締結に成功したカナダのアックスワージ外務・貿易相などはコソボのアルバニア系住民の人権保護などを念頭にG8サミットで「紛争予防と人間の安全保障」の問題を提起するなどした。しかし、内政不干渉の原則を重視するアジア、アフリカの多くの諸国がこのような解釈に強く反撥した。

 こうした中で、2001年はじめにわが国のイニシアティブにより緒方貞子JICA理事長とケンブリッジ大学教授(当時、後にハーバード大学教授)のアマルディア・セン氏を共同議長とする「人間の安全保障委員会」が設立され、2003年夏に報告書を国連事務総長に提出した。この報告書は「人間の安全保障」を「人間の生にとってかけがえのない中枢部分を守り、すべての人の自由と可能性を実現すること」とする広義の解釈を採用した(注3)。これは要するに、国連事務総長の表現を借りれば、恐怖からの自由、欠乏からの自由、尊厳されて生きる自由の三つの自由を含む概念であった(注4)。そして、同年発表されたわが国のODA大綱でも基本方針の一つとしてこのような「人間の安全保障の視点」の重要性が強調され、その上で、四つの重点課題の一つとして「平和構築」が掲げられるにいたった。

 その後、2005年に開催された国連創立60周年サミットの成果文書の中でもこの広い定義が採用されると同時に、結論が持ち越されてきた「保護する責任」については、すべての人が人間の安全保障への権利、つまり「保護される権利」があるとの前提の上で、「保護する責任」は第一義的には国家の責任であり、国家がこの責任を果たせない場合には安保理の決議を経て国際社会がこれを果すとされたのである。もちろん、安保理には拒否権の問題があるが、一応は前進であったと考えてよいであろう。

 実際問題として、「保護する責任」の問題は紛争とか人権侵害が起っている段階での問題であって、紛争終了後の紛争再発予防とか平和構築の段階の問題ではない。しかし、紛争の再発予防、平和定着、平和構築を考える段階においても、国家の安全保障の視点だけではなく、人間の安全保障の視点でものごとを考える必要があることは言うまでもない。要するに、「人間の安全保障」の問題は平和構築のための個別、具体的な政策論というよりも、何を重視すべきかの視点の問題なのである。以前とちがって、今日の世界で平和を考えるに際しては人間の安全保障を中心に考える必要があるということに他ならない。

4.平和構築要員(Peace-builders)育成の必要性
 最初に述べたように冷戦後頻発する「紛争」の件数は最近では減少する傾向にあり、特にアフリカでの件数は、SIPRI年鑑によれば98、99年の11件から05、06年には3件にまで減少している。アフリカ地域で紛争の再発予防、平和構築に力を入れる必要性はそれだけ増大していることになる。

 そこで、紛争終了地において紛争の再発を予防し、平和を構築するには何が必要とされるかをもう少し具体的に考えてみよう。停戦や和平が合意された後は、先ずはそのような合意が遵守されることを監視し、確保するために平和維持軍が派遣される。平和維持軍はさらに兵士や元戦闘員の武器解除や動員解除を実施することになる。これが前に述べたDDRの最初の二つのDの実施である。その後、一定の準備段階を経て総選挙が実施され、民意を代表する政権が樹立された時点で平和維持活動(Peacekeeping)は無事終了し、平和維持軍が撤収するのが通例のパターンである。そして、選挙監視活動も含めてDDRの三番目のR、すなわち元戦闘員の社会復帰などの仕事は文民を主体とする平和構築活動(Peace-building)に引き継がれるものと理解されてきた。

 しかし、このような平和維持活動から平和構築活動への移行が必ずしも順調にいくとはかぎらなかった。前者を主として担当する軍関係者と後者を主として担当する文民やNGO関係者の間の連携が十分でなく、「軍民協力」の改善が望まれる事例がみられた。また、平和維持軍が撤退した後で犯罪が増えるなどして治安が悪化するのを防止するために治安制度改革(SSR)が急がれるのは当然であるが、東チモールの例が示すように、なかなか満足とはいかない事例もみられた。

 「人間の安全保障」を重視する平和の構築である以上は、たとえ時間をかけてでも平和維持活動から平和構築活動への移行は切れ目のない(seamless)一つのプロセスとして行われることが不可欠であろう。さらに、人々が安心して生活できる治安体制を確立するには刑法、刑事訴訟法を含む大幅な法整備を必要とし、よき統治体制の整備も必要となる。このように考えると、軍民協力をはじめとして、DDR、SSR、法整備支援、民主化支援、復興支援などの様々な分野の専門家で構成される多人数の平和構築要員が長い期間にわたり現場に展開することが不可欠となるのである。

 現に、最近では国連の平和維持活動(PKO)要員の数が飛躍的に増大しているだけでなく、アフリカ連合(AU)などの地域機関の国際平和活動に必要とされる要員の数も増大してきている。このため、G8先進諸国はアフリカ連合(AU)の平和維持活動能力向上のための支援とか、アフリカ待機軍(African Stand-by Force)の創設に向けての要員の教育、訓練に力を入れてきている。もっとも、わが国の場合は紛争終了地域におけるDDRなどの小型武器対策、コミュニティ開発などのいわゆる「平和構築支援」には力を入れてきたが、アフリカ各地のPKO(平和維持活動)センターなどでの平和維持活動要員の教育、訓練は軍事的支援につながりかねないとの懸念からこれを自制してきた。

 しかし、すでに説明したように、平和構築要員(Peace-builders)ということであれば、軍事的任務よりも平和を築くための任務が中心であり、それには軍民協力、DDR、文民警察の育成も含むSSR、各種の国内法整備、民主化支援、復興支援などの幅広い任務が含まれる。そのための要員には軍人だけでなく文民も多く含まれることになる。そのような平和構築要員の人材育成をわが国が支援できないとする理由は乏しいと言わざるをえない。たとえば、わが国の外務省が昨年度に広島大学に委託して実施した「平和構築分野の人材育成のためのパイロット事業」では、わが国およびアジア諸国からのそれぞれ十数名の文民研修生を対象として人材育成事業が行なわれたのである。そして、私どもの日本紛争予防センターも再委託先団体としてこの事業を部分的にお手伝いしたのである。

 このようなことから、また、本年はわが国が7月の洞爺湖G8サミットに先立ち5月には横浜でアフリカ開発会議(TICADⅣ)を主催することもあり、1月24日には高村外務大臣が都内で開催された外務省主催の公開シンポジウム「平和を築(つく)る――日本と国連」での講演において、次いで1月26日には福田総理がスイスのダボス会議における講演において、今後はわが国としてもアフリカ各地のPKOセンターへの支援を行うとの新方針を打ち出されたのである。

5.日本の貢献と「積極的平和主義」
 わが国が世界の平和にどのように貢献するべきかの問題はサンフランシスコ平和条約締結以来長年にわたり大いに議論されてきたところである。概して言えば、冷戦時代終了の頃まではわが国は平和憲法のもとで軍隊は持たない、戦争もしない、それに非核三原則、武器輸出三原則など、「何々しない」といった「消極的平和主義」に徹してきたということができる。しかし、これが「平和タダ乗り」論であり「平和ボケ」であるなどとして批判され、また、2001年の湾岸戦争でわが国が行なった130億ドルの資金的協力も「血も汗も流さない小切手外交」であるとして批判されたことは記憶に新しい。

 こうしたことの反省から、92年にはいわゆる「PKO協力法」が制定されるなどして徐々に方向転換がはかられてきた。最近ではインド洋での洋上燃料補給とかイラクでの空輸活動などに自衛隊が協力できるようにするために時限立法の特別措置法などで対処してきたのであるが、今や「紛争」の終了後の平和構築活動への協力が求められる時代となったのであるから、自衛隊の海外派遣に関しては憲法解釈を明確にするなどした上で、恒久法を制定するべき時期が到来しているように思われる。

 民間レベルでも呼応する動きがみられてきた。たとえば、1999年から私が座長となって取りまとめた総合研究開発機構(NIRA)の研究プロジェクトの報告書(2001年)は「積極的平和を目指して」と題され、わが国は「何々しない」でなく、紛争予防とか平和構築の分野で「何々する」との積極的平和主義を打ち出すべきである旨を提言した。また、これに先立ち、1999年には私どもの日本紛争予防センターが設立されたが、これも紛争予防、平和構築のために「民間分野における貢献を強化する」との目的からするものであった。

 このように紛争予防、平和構築分野での活動に民間レベルでも貢献しようとする動きに関しては、実は、わが国よりも欧米諸国の方が先輩であった。International Alert, Safer World, Search for Common Groundなどのこの分野に特化したNGOが設立され、Oxfamなどの以前から存在した人権NGOもこの分野での活動に関心を示すようになったのは、1989年の冷戦終了前後からのことであった。

 10年ほど遅れてのことではあったが、わが国でそのような動きの先頭を切ったのが日本紛争予防センターである。当センターの会長は明石康元国連事務次長であるが、同氏がカンボジアや旧ユーゴスラビアでの国連の平和構築活動で大きな役割を果してきたことは周知のとおりである。また、理事の一人である東京外国語大学院の伊勢崎賢次教授は東チモール、シエラレオネ、アフガニスタンで国連あるいは日本大使館の責任者としてDDR活動を推進した実績を有する。事務局長の瀬谷ルミ子氏もシエラレオネ、アフガニスタン、コートジボワールなどで国連あるいは日本大使館の職員としてDDR活動を担当してきた。理事長の私自身も数年にわたり国連の小型武器政府専門家グループ議長をつとめた経験を有している。

 加えて、当センターは設立以来7年にわたり毎年夏に紛争予防市民大学院セミナー講座を開催して人材育成を行ってきた実績がある。さらに、昨2007年5月には瀬谷事務局長がガーナのコフィ・アナン平和維持訓練センターに委託されて同センターでのDDR研修を企画、実施した。そのようなこともあり、日本政府が本年1月に発表したアフリカのPKOセンターへの支援策を策定するに際しては当センターも現地調査その他の方法で協力するよう依頼されたのであり、これは大層喜ばしく、光栄なことであった。

 すでに述べたように、今日の世界では平和と言えば国家間の平和だけでなく人間の安全も保障される平和であることが求められている。そのためには武器は国防や治安に必要最小限のものが安全に管理され、人びとが恐怖や欠乏からの自由と尊厳の中で生きる自由を保障されることが求められている。このような平和の構築が緊急の課題となっているのがアフリカなどの「紛争」で大きな被害を蒙った地域であることは言うまでもない。そして、そのような紛争終了地において平和構築活動に生き甲斐を感ずる要員たちによる根気強い努力が必要とされているのであり、そのような要員への需要はきわめて高いのである。

 言うまでもなく、このような平和構築活動への貢献は自衛隊の海外派遣による軍事的貢献というよりは平和的な手段による貢献が中心であり、わが国が得意とする分野であると言ってよい。また、平和構築要員の人材育成事業も「平和の創り手を創る」仕事であり、多くの日本人をそのような要員として育て、多くの現地人を平和構築要員として育てるのに役立つのである。

 換言すれば、「平和に貢献しない日本」との汚名を返上するに適した時代が訪れてきたのである。世界第二の経済力を誇るわが国としては、このような新しい時代の要請に応えて、わが国の国力にふさわしい貢献を行うことに力を注ぐべきであろう。
(2008年3月28日)
注1 不戦条約(「戦争抛棄ニ関スル条約」)
 第一次世界大戦後1928年に締結され、翌年発効した多国間条約で、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定した。米国、英国、ドイツ、フランス、イタリア、日本などの列強諸国をはじめとする15カ国が署名した。その第1条は次のように規定していた。
【第1条】(戦争放棄)
締約国ハ,国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ、且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス。
注2 国際連合憲章 第2条〔原則〕
この機構及びその加盟国は、第1条に掲げる目的を達成するに当っては、次の原則に従って行動しなければならない。
・・・・・・・・・
4 すべての加盟国は、その国際関係において、武力よる威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。
・・・・・・・・・
注3 『安全保障の今日的課題――人間の安全保障委員会報告書』11頁。朝日新聞社発行、2003年。

注4 In Larger Freedom, Section IV: Freedom to Live in Dignity, pp.127-152, United Nations General Assembly, A/59/2005,21 March 2005.

2008.3.17
米大統領選挙と核軍縮

米大統領選挙と核軍縮

2008.3.17

以下は日本国際フォーラムの政策掲示板「百花斉放」に3月6日に掲載された私の投稿記事です。

 昨年1月5日、キッシンジャー、ナン、ペリー、シュルツ4氏はウォール・ストリート・ジャーナル紙上で米国は核兵器全廃に向けての大胆なイニシアティブをとるべしと論じて世界を驚かせた。米国では核軍縮推進論はいわば民主党の専売特許であり、ブッシュ現政権は前政権が署名したCTBT(包括的核実験禁止条約)の批准を拒否するなど核軍縮に後ろ向きの姿勢を示してきた。ところが共和党の国務長官経験者であるキッシンジャー、シュルツ両氏が民主党のナン、ペリー両氏と連名で核兵器廃絶を訴えたからである。

 この提案へのブッシュ政権の反応を米政府関係者に確かめたところ米国は2001年の核政策レビュー以来核兵器への依存を減らす政策をすでに採用しており、新しい核兵器の開発も行っていないと答えたことは以前(昨年9月7日)この欄でも紹介した。確かに米国の核兵器削減は進んでおり、昨年12月の発表では2012年までに核兵器保有数を2004年の半分にするとの目標は予定よりも5年も早く達成され、さらに15%削減するので、2012年までには冷戦終了時の25%以下になるとのことである。

 しかし、このような最近の趨勢はブッシュ政権の発意によるというよりも、共和党が上院で過半数を失った結果の政権移行期現象であるようにも思われる。たとえば、昨年暮れに米議会で成立した2008年度国防関連予算によれば新規核弾頭関連の予算はほぼ全面的に削られた反面、大統領は6ヶ月以内に核兵器用物質の安全を世界的に確保する計画を上院に提出すべしとするオバマ上院議員などによる修正提案は必要な予算とともに承認されたからである(Arms Control Today昨年11月号、本年1月号など参照)。

 このような状況の中で、本年1月15日にキッシンジャー、ナン、ペリー、シュルツ4氏は再びウォール・ストリート・ジャーナル紙上で核兵器廃絶を訴えた。1年前の提言を再確認する内容の論説であるが、掲げられた8項目ほどの当面の具体策は1年前のそれと多くは重複するものの同一とはいいがたい。それでもCTBT批准の必要性を再度強調していることが注目に値する。米政府がいかに核兵器への依存を減らす方針であると説明しても核実験の可能性を残す必要があるのでCTBTの批准はできないということでは説得力に乏しく、インド、パキスタン等の諸国からも足元を見られてしまうからである。

 CTBTは今年に入ってからマレーシア、コロンビアが批准したことにより発効要件国44国のうち未批准国の数はついに一桁台の9国にまで減少した。米国も批准することになればインド、パキスタンなどの他の未批准国への圧力は絶大なものとなるであろう。もちろん、米国の上院が以前の議決を覆して3分の2以上の多数の賛成により条約を批准するのは決して容易なことはでないが、キッシンジャー、シュルツ両氏が賛成となった以上は一部の共和党上院議員が賛成にまわる可能性も出てきたということであろう。

 そうは言っても、米国の政権交代による核軍縮の進展に過度の期待を抱くのは禁物である。ヘンリー・スティムソン・センターのブライアン・フィンレー氏が1月下旬の論文「ゼロの限界」で論じたようにクリントン前政権の核軍縮政策は数々の障害や抵抗により屈辱的な挫折を余儀なくされたが、同様な失敗が繰り返されない保証はないからである。

2008.2.1
アフリカと向き合う

アフリカと向き合う

2008.2.1

私も出席させてもらったが、去る1月24日に都内で開催された外務省主催の公開シンポジウム『平和を築(つく)る―日本と国連』において高村外務大臣が『平和の創り手「日本」』と題して総括講演をされた。その中で本年は我が国にとって5月に第4回アフリカ開発会議(TICAD IV)、7月にG8サミットを開催する節目の年であるので「日本は平和を創る国である、平和構築とは、日本にとって一つの国是であるという、それくらいの覚悟を定める年にしたい」と述べられた。さらに、日本はこれまでPKOを担うセンターが相手の場合でも、軍の絡むものには直接支援をしてこなかったが、「このたび初めてやり方を工夫し、アフリカ各地のPKOセンターへの日本の支援が回るように致しました」とも述べられた。

 続いて、1月26日には福田総理もスイスのダボス会議での特別講演の中で「開発を可能にするには、平和であることが大前提です。平和構築は、私が進める『平和協力国家』日本の一つの柱です。・・・新たに、アフリカ自身の平和維持能力向上を目的としたアフリカ各地のPKOセンターへの協力も行っていきます。自分の平和は自分の手で。そして日本はそんなアフリカを応援する。それこそが『自立と共生』の実践です。私は、このTICAD IVの成果を北海道洞爺湖サミットでG8の首脳と共有し、さらには、秋の国連総会において、これら2つの会議の結果を議長として報告して、世界と共有したいと考えています」と述べられた。

 言うまでもなく、アフリカにおける平和定着、平和構築は我が国が3年ごとに開催してきたアフリカ開発会議TICADの三つの柱の一つ(他の二つの柱は経済成長を通じた貧困削減と人間中心の開発)であるから、本年5月に横浜で開催のTICAD Ⅳを控えて高村外相と福田総理が以上のような決意を表明されたことは誠に時宜を得たことであった。具体的な支援や協力の方法が決まるのはこれからのことで、政府主体の支援が中心であろうが、平和定着、平和構築の分野での協力である以上は民間レベルで貢献できる余地も少なくないと思われる。

 たとえば、アフリカ各地のPKOセンターの強化ということであれば我が国の民間団体が能力向上の面で協力することなどが考えられるであろう。また、手前味噌で恐縮だが、私が社団法人アフリカ協会の機関誌「アフリカ」の最新号(本年第1号)のインタビュー記事の中でも述べたように、私どもの日本紛争予防センター(JCCP)はアフリカのPKOセンターでの教育、訓練の実績を有しているので、そのような活動の一層の拡充が求められることとなろう。したがって、本年はJCCPとしても、高村大臣が言われる通り「覚悟を定める年」となりそうである。JCCPの瀬谷事務局長が昨年夏に続いて本年1月にもケニヤなどに出張してきたのはこのような状況を踏まえてのことであった。

 以上に加えて、昨年外務省が広島大学に委託して開始した平和構築分野の人材育成のためのパイロット事業も長い目でみればアフリカにおける平和定着、平和構築に貢献する事業である。高村外務大臣は上記の総括演説の中で「パイロット事業」というと「暫定事業」の如くであるが、早晩これは本格的な教育事業にしなくてはならないとの趣旨のことを述べておられた。幸い、JCCPはこのパイロット事業でも部分的な再委託先として広島大学のお手伝いをしているので、こちらの方の取組みも本格化させる必要があるように思われる。

2007.11.16
必読の教養書『新・戦争論』

必読の教養書『新・戦争論』

2007.11.16

以下は財団法人日本国際フォーラムの伊藤憲一理事長の近著『新・戦争論』についての私の書評で、同フォーラムの政策掲示板「百花斉放」に11月1日に掲載されたものです。

 伊藤憲一氏の新著『新・戦争論』(新潮新書)は、堅苦しい題名にもかかわらず、国際問題に多少とも関心のあるすべての人のための一般教養書である。人類の起源以来の雄大な歴史を回顧し、この1万年ほどは社会現象としての戦争が絶えない「戦争の時代」であったが、核兵器の登場と冷戦期を経ていまや国際社会は「不戦の時代」に突入しつつあると論じている。軍備管理・軍縮の問題に長らくかかわってきた私にとっては、学ぶところが多く、違和感の少ない専門書であるが、一般の人にも分かりやすく、説得力のある筆致で書かれた手頃な解説書といったところである。

 「不戦の時代」に突入といっても、「東アジアは、欧州とは異なり、まだ冷戦の最中にある」として日本を取り巻く情勢を日清、日露戦争時代への「先祖返り」とするような考え方に対しては、核抑止力体制下で軍事力以外の方法による戦いをつづけているとの意味ではまさに「冷戦の最中」にあるが、時代の変化を理解しない非歴史的思考、非戦略的思考であると断じており、小気味よいほどに明快である。「不戦の時代」をむかえて日本の選択はどのようなものであるべきか?わが国は世界不戦共同体に米国の同盟国として協力しつつも、それが「アメリカ帝国」的色彩でなく「世界政府」的色彩を強めるよう努力するべきであるとする、本書の提言に異存のある日本人は少ないであろう。

 加えて、「積極的平和主義」も提言されている。「あれもしない、これもしない」といった「消極的平和主義」は戦争時代の思考法にとらわれた偽物の平和主義であり、国連の平和維持活動などのために「あれもする、これもする」との積極的平和主義こそが不戦共同体の一員としての日本の選択であるべきだとしている。7年ほど前に総合研究開発機構(NIRA)が「戦争の時代から紛争の時代へ」などとして、「積極的平和主義を目指して」と題する研究報告を発表したことがある。その後、国連に平和構築委員会が設置され、わが国の防衛庁も防衛省に改組された。このような最近の時代の流れからみても、積極的平和主義がわが国の進むべき道であることは間違いないであろう。

 本書は戦争が違法化された不戦時代にあっても平和を脅かす者(アクター)として、第一に「ならず者国家群」、第二にいわゆる破綻国家において大量虐殺などを行う「非国家アクター群」、第三に「国際テロリスト」の3グループがあるとした上で、とくに第二のグループに対処するために、わが国は「人間の安全保障」「紛争予防」「平和構築」などの活動に積極的に参加すべきであると提言している。言うまでもなく、ここでは「戦争」ではなく非国家主体を主たるアクターとする「紛争」が対象となる。「戦争時代」には周辺的な課題であった「紛争」への対処が、「不戦時代」には安全保障上の中心的な課題となり、当初は「予防外交」と呼ばれ、次いで「紛争(再発)予防」と呼ばれ、現在では「平和構築」とも呼ばれている諸活動の重要性を指摘している。わが国の積極的貢献が望まれるのである。

 『新・戦争論』の「新」という一字には著者の伊藤氏の万感の思いが込められているとのことであるが、それを理解するためにも本書を一読することをお奨めしたい。

2007.9.20
第12回通常総会を終えて
(活気を取り戻したJCCP)

第12回通常総会を終えて
(活気を取り戻したJCCP)

2007.9.20

 去る8月21日に当センターの第12回総会が開催されて昨年度(2006年度)の事業報告書、収支決算書が審議され、承認されました。昨年度はそれに先立つ2005年の在スリランカ代表事務所における資金管理問題の後始末に追われ、当センターの運営体質にも問題があったことが明らかとなり、団体としての存続自体が危ぶまれた年でした。そして、去年8月の第10回総会で明石康会長が「当センターは苦しい中でも存続の道を選び、本来の姿に立ち戻り、再出発を目指すことになりました」と挨拶して、運営体制の大幅スリム化・合理化、役員人事の刷新、定款の改定などの決定が行われたのでした。

 ゼロからの再出発に等しい厳しい道のりでしたが、当センターが縮小された規模ながらも本来の事業活動を再開できるようになったのは昨年暮れ頃のことでした。そして、本年4月から瀬谷ルミ子新事務局長に迎えることができたのは誠に喜ばしいことでした。何故なら、センターの運営を大所高所から掌理するのは理事長の私を含め役員たちの任務ですが、日常の業務を統括し、処理するのは事務局長であり、本格的な事業活動のためには能力もあり意欲もある事務局長を必要としていたからです。

 幸いなことに、瀬谷事務局長を迎えてからの当センターの活動は一段と活発化し、本格的な展開をみせています。今回の総会は昨年度の、すなわち本年3月末で終わった事業年度の事業報告などをご承認頂くためのものでしたが、本年4月以降の活動状況につき会員の皆様方に報告させて頂く最初の機会でもありました。その第12回総会の席で次のような一連の朗報をご報告することができたのは誠に喜ばしいことでした。

 (1)5月には4週間にわたり瀬谷事務局長がガーナに出張してコフィ・アナン国際平和維持訓練センターで行われたDDR(武装解除、動員解除、社会復帰)研修事業の企画者兼講師をつとめてきました。カナダのピアソン平和維持センターの委託によるものでしたが、海外でのこの種の研修事業の実施はわが国のNGOとしては初めてのことであり、当センターの本来の設立趣旨にも沿ったものでした。(6月8日付けのこの掲示板でも紹介済み。)

 (2)7月9日には在カンボジア日本大使館において外務省のNGO支援無償資金(約2千万円)によるコンポントム州サンダン県での小学校建設事業に関する契約書の調印式があり、これにも瀬谷事務局長が出席し、署名してきました。ポルポト派の拠点であった僻地における学校建設事業であり平和構築に資するものです。また、当センターの山田奈津美職員がこの事業のプロジェクト・コーディネーターとして現地の田中剛代表を補佐するために赴任しました。

 (3)7月30日には当センターの戸引理職員がスリランカのセワランカ財団からの申し出により平和構築・コミュニィティー復興の専門家として同財団本部事務所に赴任しました。当センターの在スリランカ代表事務所は地雷除去事業の終了にともない昨年7月末以来職員不在の状態となっていましたが、これを機会に、現地でのニーズを見極めた上での事業活動再開の可能性を検討することになりました。

 (4)8月9日には広島大学が外務省の委託によりこのほど開始した平和構築分野での人材育成を目的とするいわゆる「寺子屋」事業の再委託先としての契約を同大学との間で締結しました。わが国およびアジア諸国からの応募者の中から選ばれた30名ほどの研修生を対象に平和構築分野での最高レベルの研修を広島および海外の現場で受けさせるためのパイロット・プロジェクトですが、当センターもその持てる知見を活かして、部分的にではありますが、お手伝いすることになりました。

 以上のようにこの1年ほどの間に当センターは見違えるほどに元気を回復し、本来あるべき姿を取り戻してきたと思います。それが可能となったのは、申すまでもなく、会員をはじめ多くの皆さま方の暖かいご理解とご支援があったからであります。たとえば、現在の事務所への移転に際して好意的に取り計らってくださった明石書店の石井昭男社長、昨年年末に景気付けのために座談会を開催してくださった紛争予防市民大学院第2期生の4人の方々、賛助会費、支持会費、寄付金などの拠出により力強い支援の手を差し延べてくださった団体や個人の方々、それに外務省をはじめ官民の助成団体など、数えあげればきりがありませんが、多くの皆さま方から賜りました暖かいご理解とご支援に厚く御礼申し上げますとともに、今後ともご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。

2007.9.10
核軍縮へ高まる期待

核軍縮へ高まる期待

2007.9.10

日本紛争予防センターの活動と「核軍縮」とは何の関係があるのかと思われる方もおられるだろうが、以前に「予防外交入門」でも論じたとおり、軍備管理・軍縮も予防外交、紛争予防の重要な手段の一つです。迂遠な話のようですが、核兵器が廃絶されれば核兵器を使う戦争や紛争は予防できるからです。以下は財団法人日本国際フォーラムの政策掲示板「百花斉放」に9月7日付けで掲載された私の投稿記事です。

 「先月末に札幌で開催された国連軍縮会議に出席する機会に恵まれた、本年5月のウィーンでの2010年NPT運用検討会議第1回準備委員会が議題の採択、建設的な実質討議などで成功裏にスタートを切ったことから、核軍縮への高まる期待が示された会議となった。この準備委員会を議長として成功に導いた天野ウィーン国際機関日本政府代表部大使の外交努力は各方面から高く評価されているが、同大使は決裂を回避できたのは綱渡りのようなものであったとして、過度の楽観論をいましめていた。

 高まる期待感のもう一つの根拠となったのは本年1月にシュルツ、ペリー、キッシンジャー、ナン4氏がウォール・ストリート・ジャーナルの紙上で行ったアメリカは核兵器廃絶のために大胆な、新しいビジョンを示せとの呼びかけであった。札幌会議には国務省のフォード核不拡散特別代表も出席してアメリカの核の傘はこれを必要としている同盟国もあり、核不拡散にも役立っているとの趣旨の演説を行ったが、上記の4氏の呼びかけへの米政府の立場についての質問には、同代表が3月にアヌシーでのセミナーで配布した論文をよく読んで欲しいと答えていた。同論文はNPT条約が掲げる核兵器廃絶義務に米政府はコミットしており、それが実現可能となる国際環境の整備が先決であるとしながらも、米政府は2001年の核戦略レビューの結果核兵器への依存度を減らす方針をすでに採用しており、他の核兵器諸国もこれを見習って欲しいとする内容のものである。

 相手国の戦力破壊(カウンター・フォ−ス)が目的であればトマホークなどの精密誘導兵器が登場してきた結果、核弾頭を用いなくても通常兵器で目的は十分に達せられ、一般民間の被害も少なくて済むとの議論は1994年1月にワシントン・ポストでポ−ル・ニッツェ氏が提起して以来核兵器不要論の有力な根拠となっている。核兵器の唯一の「とりえ」は大都市などに対する大量破壊(カウンター・バリュー)能力なのである。

 筆者からはフォード代表に対してアメリカの核の傘を必要とする同盟国もあるから核抑止力は必要とのことであるが、同盟国が必要としているのは核兵器などの大量破壊兵器による脅威に対抗する「抑止力の傘」であり、効果的に機能するのであれば何も「核抑止力」である必要はなく「通常兵器抑止力」であっても差し支えない筈であると指摘したところ、そのような議論が深まることを期待しているとのことであった。

 また、フォード代表は最近ではアメリカはRRW(核弾頭を信頼性のある弾頭で置き換えるプログラム)と称して新規の小型核兵器の開発、配備を進めているのではないかとする風評があるようだが、RRWはあくまでも既存の核弾頭の取替えであり新規の小型核兵器の開発、配備は一切ないと強調していた。これは、最近では地中貫通型小型核兵器などの開発予算が米議会で認められていないことからみても、その通りであろう。

 もちろん、核軍縮の前途はカット・オフ条約締結交渉の開始、CTBT条約の早期発効など、多難に満ちた道のりであることに変わりはないのであるが、上に述べたように少なくともアメリカは核兵器への依存度を減らす方針であることが明確になってきている。核兵器のない世界へ向けての確かな手がかりであり、歓迎すべきことである。

2007.6.7
ガーナにおけるDDR研修、その他近況ご報告

ガーナにおけるDDR研修、その他近況ご報告

2007.6.7

新年度に入って2ヶ月余りが経過しました。近日中に開催予定の理事会、総会に先立ち会員や支持者の方々に当センターの近況をお伝えしたく思います。

 4月に就任したばかりの瀬谷ルミ子事務局長は5月一杯はガーナに出張し、当センターがピアソン平和維持センター及びコフィ・アナン国際平和維持訓練センターと協力して開催したDDR(武装解除、動員解除、社会復帰)研修事業の企画担当者兼講師としての仕事を終えて元気に帰ってきました。国連の平和維持活動が最も必要とされているアフリカにおいて国連PKO関係者などにDDR分野での実務処理能力を高めてもらうことの重要性はいまさら強調するまでもありません。海外でのこの種の研修事業の実施はわが国のNGOとしては始めてのものでしたが、紛争予防及び平和構築分野での人材育成に民間レベルでも貢献しようとの当センターの本来の設立趣旨に沿ったものあり、今後とも国内、国外でこの種の活動には力を入れていく方針です。

 笹川平和財団の助成を受けて一昨年の暮れに開設した紛争予防人材ネットHCCPにつきましては、これを当センターの市民大学院卒業生ネットと組み合わせるなどして、登録者の相互啓発、知識共有の場としても役立つよう心がけております。昨年暮れからは人材ネット関係者による勉強会を定期的に開催していますが、4月には小川和久理事(軍事アナリスト)を講師として「平和構築と日本の国家戦略」につきお話しいただき、5月と6月には東チモールの選挙とその後の情勢について造詣の深い広島大学の上杉勇司准教授と法政大学の長谷川祐広教授のお二人に講師となっていただきました。

 しかし、言うまでもなく、人材ネットは登録された方々のキャリア形成のための職場紹介、斡旋に役立つべきものです。幸い、この分野での知識、経験に富む瀬谷事務局長を迎えたのを機に、その観点から今後はこの人材ネットの内容的充実、機能強化にも一層の努力をしていきたく思います。その関連で、人材ネットでもご案内しておりましたスリランカでのインターン希望者の受け入れが当センターの提携団体であるセワランカ財団との間で具体化しつつあることをご報告させていただきます。

 なお、当センターは会費や寄付金の確保による財政基盤の強化と新規助成事業の獲得による事業活動の拡大の面でも地道な努力を重ねております。味の素株式会社様からは本年1〜3月のワンクリック募金による30万円のご寄付を頂きましたし、本年度からは新規に北海道建設会館様が賛助会員としてご入会下さいました。賛助会員ではありませんが、富士ゼロックス株式会社様からも本年度分として30万円のご寄付を頂きました。さらに、3名の方々が新規に支持会員としてご入会下さいました。各位の暖かいご理解とご支援に厚く御礼申し上げます。そして、事業活動の拡大面では、カンボジアにおける識字教育事業に今井記念海外協力基金から、また、小学校建設事業に外務省のNGO支援無償によるご助成を頂けることとなりました。

 ホームページでもご紹介しておりますが、以上をご報告させていただきます。

2007.4.2
事務局長に瀬谷ルミ子さんを迎えて

事務局長に瀬谷ルミ子さんを迎えて

2007.4.2

陽春の4月は新入生、新入社員の季節であり、若々しい活力に溢れる新生の季節ですが、当センターも事務局長に瀬谷ルミ子さんを迎えて新しくスタートしました。

 振り返ってみれば、過ぎ去った一年は当センターにとっては再出発に向けての苦難と試練に満ちた年でした。しかし、会員および支持者の皆さま方の暖かいご理解とご支援のもとに、新しい役員体制、運営体制を整え、「紛争予防、平和構築のために民間分野における日本の貢献を強化する」との当センターの本来の趣旨に沿った活動を再開するべく準備を進めてまいりました。昨年8月にはそのための総会を開催し、10月には事務所を移転し、暮れの12月からは当センター人材ネット関係者による勉強会も開始しましたことは、このホームページなどでもご覧いただけるとおりです。

 本年に入り、去る2月28日の理事会および3月19日の総会では、「市民社会論」の著作などでも知られ、当センターの恩人でもある入山映氏の新理事就任を含め、第四期(本年4月から2年間)の役員名簿が承認されました。また、規模はスリム化したものの、当センター本来の趣旨に沿った事業計画案、収支予算案も承認されたところです。そして、これらの理事会、総会でも私から報告しましたとおり、この4月から瀬谷ルミ子さんをこの半年ほど空席であった事務局長に迎えることとなりました。

 瀬谷さんは当センター市民大学院講座の2期生(2000年夏)であり、私は同講座の講師の一人でしたから当時からよく存じていましたが、これまでにNGO、外務省、国連などでの勤務を通じて紛争地でのDDR(武装解除、動員解除、社会復帰)の現場で豊富な経験を積んできた方です。また、その間、実務だけでなく、ブラッドフォード大学、広島大学で研究活動を行うなどして、多くの論文なども発表してきました。

 このように若くしてエキスパートである瀬谷さんを当センターの事務局長として迎えることができるのを、理事長の私としては大層嬉しく思っております。瀬谷事務局長は当センターが掲げる理念と目標に向かってその活動内容を一段と充実させていく上で大きな力となってくれるものと確信しております。つきましては、会員および支持者の皆さま方の当センターに対する一層のご指導、ご鞭撻をよろしくお願い申し上げる次第です。

2007.3.26
小型武器管理と平和構築に関する私の英文スピーチ・テキスト

小型武器管理と平和構築に関する私の英文スピーチ・テキスト

2007.3.26

去る3月12、13日に外務省において開催された「小型武器東京ワークショップ」において有識者の一人として出席した私が行った「小型武器管理と平和構築」と題する英文スピーチのテキストを関心のある方々のご参考までに以下に紹介します。

 なお、このワークショップには関係国政府や国際機関関係者だけでなく内外のNGO関係者、有識者も参加しました。私のスピーチは3月13日の「今後の行動」と題する第Vセッションで行われたものです。

Tokyo Workshop on SALW March 12~13, 2007 Session V

Small Arms Control and Peace Building

Presentation by Mitsuro Donowaki President, The Japan Center for Conflict Prevention

(Origin of DDR)

Ten years ago, the United Nations Panel of Governmental Experts on Small Arms submitted its report, the first of its kind on small arms and light weapons (SALW), to the General Assembly (1). I had the honor to serve as the chairman of the Panel. Two of the recommendations contained in the report, both related to demand factors of SALW issues, deserve particular attention today in considering future actions on these issues.

One was the recommendation that the United Nations should prepare guidelines to assist peace negotiators to include in peace agreements plans for disarmament, weapons collection and weapons disposal, and also to assist peacekeeping missions to implement such plans (2). Another was the recommendation that the United Nations should promote the so-called “proportional and integrated approach to security and development” (3). The first recommendation was based on the findings of several case studies according to which the absence of clear terms for disarmament, weapons collection and disposal in peace agreements and in the mandates of peacekeeping missions led to continued proliferation of SALW in post-conflict regions. Also important was the reintegration of ex-combatants into society, as was stressed in the Panel’s report (4).

In response to this recommendation, the UN Special Committee for Peacekeeping Operations that met in April 1998 decided to ask the Department for Peacekeeping Operations (DPKO) to work out such guidelines, and a document entitled “Disarmament, Demobilization and Reintegration of Ex-combatants in a Peacekeeping Environment” was produced in July 1999 (5). In the same month, in July 1999, the Security Council adopted its Presidential Statement (6) requesting the Secretary-General to prepare within six months a report on disarmament, demobilization and reintegration of ex-combatants. In this way the term “DDR” made its first appearance in UN documents.

Six months later, the Secretary-General’s report “The Role of United Nations Peacekeeping in DDR” was submitted to the Security Council in February 2000 (7). Also, starting from the UN Mission in Sierra Leone (UNAMSIL) of October 1999 it has become an established practice for peacekeeping missions to include in their mandates specific references to DDR.

What I wanted to emphasize is the fact that the term DDR, now commonly used in relation to peace-building activities, had its origin in the Panel’s report on small arms. DDR was an attempt to put together peacekeeping activities (DD) and peace-building activities (R) as one continuous process. As is well known, peacekeeping activities are normally carried out by military peacekeepers. After peacekeepers finish their task, peace-builders who are civilians in most cases come in and begin their activities. Time lag and lack of coordination between the two activities could create problems. Therefore, there was a need to bring them closer together.

The Brahimi report of August 2000 (8) advanced this concept even further by saying in effect that D and D cannot be completed unless R is achieved. They are parts of one and same process. The establishment of the UN Peacebuilding Commission in December 2005 marked a significant step forward in this sense because DDR is now regarded as one component of peace-building activities. As a result, under the name of peace-building activities longer span of time may be allowed for the DDR process to be more fully carried out. What has been going on in Timor L’Este, for example, may serve us as a good lesson. Premature withdrawal of peacekeeping forces while peace-building activities are going on will have to be avoided as much as possible. Closer coordination and cooperation between those engaged in peacekeeping activities and those engaged in peace-building activities may have to be worked out.

(Integrated approach for peace building)

The second recommendation of the Panel on the so-called “proportional and integrated approach to security and development”, like the first recommendation on DDR, was also related to the reduction of SALW in post-conflict regions. According to the findings of the UN Advisory Missions sent to Mali and other states in West Africa in 1994 and 1995, people in post-conflict regions did not wish to turn in their weapons unless internal security was established.The second recommendation of the Panel on the so-called “proportional and integrated approach to security and development”, like the first recommendation on DDR, was also related to the reduction of SALW in post-conflict regions. According to the findings of the UN Advisory Missions sent to Mali and other states in West Africa in 1994 and 1995, people in post-conflict regions did not wish to turn in their weapons unless internal security was established.The second recommendation of the Panel on the so-called “proportional and integrated approach to security and development”, like the first recommendation on DDR, was also related to the reduction of SALW in post-conflict regions. According to the findings of the UN Advisory Missions sent to Mali and other states in West Africa in 1994 and 1995, people in post-conflict regions did not wish to turn in their weapons unless internal security was established.The second recommendation of the Panel on the so-called “proportional and integrated approach to security and development”, like the first recommendation on DDR, was also related to the reduction of SALW in post-conflict regions. According to the findings of the UN Advisory Missions sent to Mali and other states in West Africa in 1994 and 1995, people in post-conflict regions did not wish to turn in their weapons unless internal security was established.

In order to establish internal security, a strong police will be needed. You wish to get rid of weapons, but you need weapons for this purpose --- this was the problem. In such cases, what you need first is a good police, instead of a bad police who might intimidate people and suppress their basic human rights. One has to start by training police officers so that they learn their job is to protect people from criminal acts. All the illegal weapons should be confiscated, while all the police firearms should be securely kept under control. The rule of law should be put in place. Democracy and good governance should be promoted. Living standard should be improved. This was the reason why the so-called “proportional and integrated approach to security and development” was recommended in the Panel’s report, and “security” here meant human security instead of the security of states. For the members of the Panel who were disarmament specialists this was the first experience to deal with the question of internal security, human security and other related issues such as security sector reform (SSR), good governance and development needs.

This new approach recommended by the Panel was endorsed by most of the major donor countries, including the European Union, and also at the International Conference on Sustainable Disarmament for Sustainable Development held in Brussels in October 1998 (9). At about the same time, extensive discussions were already going on in the UNDP, the OECD, the World Bank and other development assistance communities on the relationship between human security and peace building. As a result, the importance of an integrated approach for peace building in post-conflict regions came to be widely recognized, and the UN Peacebuilding Commission came to be established in December 2005.

It may be recalled that the World Summit Outcome Document of 2005 establishing the Peacebuilding Commission (10) retained the paragraph referring to the 2001 Programme of Action on Small Arms (11), while it failed to retain most other paragraphs related to disarmament issues. This means that with the establishment of the Peacebuilding Commission the international community made a renewed commitment to fully implement the Programme of Action as an integral part of peace-building activities.

As is well known, the proliferation of SALW continues to pose serious problems in most of the post-conflict regions where the UN peacekeeping operations were already finished. It is precisely in such regions today that peace-building activities have to be carried out, and a consolidated approach that incorporates DDR, SSR, good governance, development assistance and so forth is needed. This is the reason why Japan has been promoting JSAC’s (12) activities in Cambodia, and why the UNDP, the World Bank and other international organizations and civil society organizations have been making efforts to help African states in implementing the Programme of Action. Looking to the future, we will have to redouble such efforts.

(Supply-side factors)

I am aware that in my presentation I mostly talked about the demand-side factor of SALW issues with due respect to the main theme of this Tokyo Workshop. However, in considering future actions related to SALW issues, I should not fail to mention that there are a number of measures contained in the Programme of Action that can be taken mostly by the supply-side states. They are the measures to prevent, combat and eradicate the illicit trade of SALW, as the title of the Programme of Action says. As a matter of fact, these measures will be also helpful to the affected regions because illegal inflow of such weapons ought to be effectively reduced and eliminated at the source and before they reach their final destinations.

One concrete achievement already made in this regard was the adoption in 2005 of the International Instrument to Enable States to Identify in a Timely and Reliable Manner, Illicit Small Arms and Light Weapons. Another was the establishment of the group of governmental experts to consider further steps to enhance international cooperation in preventing, combating and eradicating illicit brokering in SALW, that will submit its report to the General Assembly later this year. The third was the adoption of the General Assembly resolution (13) in December last year to establish a group of governmental experts next year to examine the feasibility, scope and so forth of a comprehensive, legally binding instrument establishing common standards for the import, export and transfer of conventional arms.

As is the case with demand factor issues, the supply-side control of SALW is neither easy nor simple, because SALW are needed by all states for defense and security purposes, and also because transfer control is becoming harder in this age of globalization. However, it should be recalled that by adopting the Programme of Action at the 2001 Conference all states made a commitment to undertake a set of measures covering both demand-side issues and supply-side issues. Therefore, let me conclude my presentation by reiterating that in considering future actions, all the issues covered by the Programme of Action ought to be kept in our minds.

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1 Report of the Panel of Governmental Experts on Small Arms, 1997. A/52/298.

2 Ibid. A/52/298, paragraphs 49 and 79(d).

3 Ibid. A/52/298, paragraphs 42 and 79(a).

4 Ibid. A/52/298, paragraph 43.

5 Report of the Group of Governmental Experts on Small Arms, 1999. A/54/258, paragraph 68. 6 S/PRST/1999/21.

7 The Role of United Nations Peacekeeping in Disarmament, Demobilization and Reintegration,11 February 2000, S/2000/101.

2007.3.2
オーエン・グリーン教授講演会について

オーエン・グリーン教授講演会について

2007.3.2

下記ご案内状のとおり、当センターは外務省との共催で3月14日(水)午後UNハウスにおいてブラッドフォード大学オーエン・グリーン教授による小型武器問題に関する公開講演会を開催いたします。

 アフリカなどの紛争修了地における平和構築とか平和定着の必要性が叫ばれるようになったのはこの数年来のことですが、氾濫する小型武器の規制がその中心課題であると言っても過言ではありません。2001年に国連小型武器会議が採択した「行動計画」の重要性は国連が平和構築委員会の設立を決めた2005年の世界首脳サミット成果文書の中でも強調されているほどです。

 小型武器問題はわが国の主導のもとに国連が90年代中頃から取り組んできた問題ですが、オーエン・グリーン教授は私が議長をつとめた国連小型武器政府専門家会合のコンサルタントとして報告書作成を手伝うなど、この分野では豊富な経験をお持ちです。

2007.1.22
日本紛争予防センター近況ご報告

日本紛争予防センター近況ご報告

2007.1.22

昨年10月20日に当センターの事務所移転その他についてご報告して以来3ヶ月ほどが経過しましたが、下記のとおり近況を報告させていただきます。

 1.人材ネット関係者のための勉強会の開始

 当センターが昨年度の事業として立ち上げました紛争予防人材ネットHCCP(Human Capital for Conflict Prevention)を充実させながら運用していく必要があり、これに登録された方々を中心とする勉強会を月一回程度のペースで開催することとしました。第1回目は12月12日に開催され、私から「武器管理と平和構築」について報告いたしました。第2回目は1月17日に開催され、伊勢崎賢治理事(東京外国語大学院教授)から「日本の平和貢献、アフガンから考察する」として報告いたしました。その模様はこのホームページでさらに詳しく紹介しておりますのでご覧いただければと存じます。

 なお、この勉強会に参加を希望される方々は紛争予防人材ネットHCCPに登録していただけば毎回ご案内を差し上げます

 2.座談会記録のホームページへの掲載

 当センターの紛争予防市民大学院講座の第2期生(2000年8月の受講生)で紛争予防、平和維持分野の第一線で活躍中の上杉さん、久保さん、世古さん、瀬谷さんの4人による座談会を暮れの12月20日に開催しました。アフリカの国連PKO活動の現場などからみた紛争予防、平和構築活動の現状、課題などについて、あるいは日本が果たすべき国際貢献について示唆に富む有益な討議が行われましたので、その内容をこのホームページで紹介いたします。3回に分けて週一回のペースで紹介することとし、第1回分はすで掲載されました。

 3.カンボジアにおける武器回収、農村開発事業の報告会

 当センターの本年最初の行事は1月9日の東京、広尾のJICA地球ひろばで行われた田中剛在カンボジア代表による武器回収、農村開発事業についての報告会でした。これがJICA地球広場にとっても本年最初のイベントとなりました。この事業は当センターのカンボジア在外代表事務所が「草の根パートナー型委託事業」として2004年8月から2006年5月にかけて成功裡に実施したもので、JICAに提出した実施完了報告書もこのホームページから閲覧できるようにいたしました。

 4.財政基盤強化の必要性

 以上のように当センターの活動も徐々に軌道にのり、本格化しつつあります。助成団体への事業助成の申請も行っております。また、当センターとしましては来年度においては紛争予防市民大学院講座を自主事業として実施することも企画中です。

 他方、会費・寄付金収入などによる当センターの財政基盤の強化のための一層の努力が必要とされることは申すまでもありません。この1年ほどの間に当センターのためにご寄付を下さり、あるいは新しく会員となって下さった方々を含め、会員及びその他の皆さま方の心強いご理解とご支援に深く感謝申し上げますとともに、今後とも引き続きご指導、ご鞭撻を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。


2006.12.18
武器管理と平和構築

武器管理と平和構築

2006.12.18

以下は去る12日に当センターの人材ネット関係者による勉強会で私が行った報告です。

 1.DDRの由来(小型武器問題への取り組みが出発点)

 冷戦後頻発する地域・国内紛争への取り組みが重視される中で1993年にブトロス・ガリ国連事務総長の「平和への課題」が発表された。国連の取り組みには紛争の段階に応じて予防外交、平和創造、平和維持、平和構築があるとして、意欲的な提言を含む報告書であった。平和維持は紛争終了後の活動であるが、これを平和強制の目的で活用する提案もなされ、ソマリアにおけるUNOSOMⅡでこれが試みられた。しかし、93年10月の米兵死傷事件で挫折し、伝統的平和維持活動への回帰を余儀なくされた。

その後、95年の同事務総長の「平和への課題、その追補」では伝統的平和維持活動に加え、予防外交、平和構築を重視する方針が打ち出された。この「追補」の中で始めて小型武器問題が提起された。地域・国内紛争で主として使われるのは小型武器であり、予防外交、平和構築の観点からもその規制は必要であった。

 この問題提起に応えて95年にわが国が提出した総会決議により設置された政府専門家パネルが97年夏に具体的な提言を含む報告書(A/52/298)を発表した。特に注目された提言は次の二つであった。

 (1)紛争終了に際しては和平協定の中で戦闘員の武装解除や武器の回収、処分などが明記されるべきであり、国連平和維持活動のマンデートの中でもこれが明記されるべきであるので、国連はそのためのガイドラインを作成すべしとの提言。

 (2)紛争終了地域で氾濫している小型武器を削減しようとする場合には国連や援助供与諸国は「治安と開発のための均衡のとれた包括的なアプローチ(a proportional and integrated approach to security and development)」を採用すべきであるとの提言。

 上記の(1)は当時UNIDIR(ジュネーブの国連軍縮研究所)が手がけていた「紛争終了時の軍縮」と題する一連の研究シリーズなどで和平協定やPKOのマンデートに武器回収、武装解除などが明記されていなかったために選挙終了をもって任務終了とされ、小型武器が回収されずに残され、紛争の再発を招くケースが少なくないとの指摘を行ったのを受けての提言であった。これがDDRの考え方の原点となった。

 この提言を具体化するためにわが国は98年春の国連PKO特別委員会において国連事務総長にガイドラインを作成することを要請する決議を成立させようと試みた。結局、国連PKO局が作成中の報告書の中でこれに相当する作業を行うことで妥協が成立した。この作業が進められている間、98年11月にわが国が中心となってとりまとめた小型武器に関する安保理決議S/RES.1209の中(前文パラ10、主文パラ14)でもこの(1)の提言の重要性が強調された。

 このPKO局作成のガイドラインが99年7月の”Disarmament, Demobilization and Reintegration of Ex-combatants in a Peacekeeping Environment”と題する文書であった。DDRのRは武装解除、動員解除に加えて元戦闘員の社会復帰という復興開発の要素を取り入れた考え方であった。元戦闘員の社会復帰が保障されないかぎり犯罪の増加、治安悪化、紛争再発の危険性が残るからであり、平和維持活動と平和構築活動は切れ目の無いプロセスであるとの考え方を反映したものであった。

 折から、7月の安保理議長国であったマレーシアが小型武器問題、それもDDRを中心とする安保理公開討論を主催し、議長声明S/PRST/1999/21 を発表した。その中で国連事務総長が6ヶ月以内に安保理にDDRに関する報告書を提出するよう求めた。これを受けて事務総長は2000年2月に「国連のDDRにおける役割」と題する報告書S/2000/101を安保理に提出した。

 このようにしてDDRは国連の平和維持活動と平和構築活動を結びつける概念として大きな比重を占めるようになり、頻繁に引用される用語としても定着するに至った。99年10月の国連シエラレオーネ・ミッション(UNAMSIL)以降はPKOマンデートの中でのDDRへの言及が恒例化するようになった。

 2.平和構築のための包括的なアプローチ

 ところで、上記(2)の「治安と開発のための均衡のとれた包括的アプローチ」も上記(1)と同じく紛争終了地などにおける小型武器の削減のための提言であったが、小型武器問題の特殊性を浮き彫りにした内容のものであった。政府専門家パネルはこの提言を行うに際して国連が94年と95年にマリのコナーレ大統領の要請に応えて同国と周辺諸国に派遣したミッションの報告を重視した。これは治安が確立されていない地域で民衆から武器を回収するのは困難であり、先ずは治安制度確立(Security First Approach, Security Sector Reform)から始めるべしとする報告であった。

 実際問題として、治安制度確立のためには警察の装備近代化といった小型武器回収とは矛盾する支援を必要としている。しかし、民衆を弾圧するような独裁政権の治安能力を支援するわけにはいかないので、民衆を犯罪から守るための警察などの「よき統治」の実現が先決であり、このための民主化支援、法整備支援、さらには民生向上のための開発支援などの「包括的アプローチ」が必要とされるのである。このような「国づくり」を視野に入れた発想はこれまで国家間の戦争や紛争しか扱ってこなかった軍縮関係者にとっては全く新しいものであった。従来は内政問題と考えられてきた個々人の安全や人権の問題を「人間の安全保障」の視点から導入するアプローチであった。

 このように、「治安と開発のための均衡のとれた包括的アプローチ」は最初は国連のUNDPによりマリなどの西アフリカで採用され、これがパネル報告書の提言の一つとなったのであった。そして、98年10月にブラッセルでOECD/DACが主催した「持続的開発のための持続的軍縮」で採択された「行動への呼びかけ」とか、同年12月にEU委員会が採択した小型武器に関する「共同行動」の中でも引用され、エンドースされるに至ったのである。

 しかし、ほぼ時期を同じくして、UNDP、OECD、世銀などで開発専門家たちによる紛争後の復興開発、すなわち平和構築と人間の安全保障に関する論議が深まるにつれて、当初は小型武器対策として用いられた「治安と開発のための均衡のとれた包括的アプローチ」との表現に代わり「平和構築のための包括的アプローチ」との表現が次第に一般化するに至った。それでも、その背景には上記のような小型武器問題への取り組みがあったことは言うまでもない。

 3.武器管理は平和構築の主要な柱の一つ

 DDRを含めた平和構築の重要性は2000年8月のブラヒミ報告でも強調されたが、その後、国連の抜本的改革問題との関連で作成された2004年暮れのハイレベル委員会の報告、これを受けた2005年3月のアナン事務総長報告の中でさらに議論が深められ、2005年9月の世界首脳サミットの成果文書により平和構築委員会の設立への運びとなったことは周知のとおりである。

 今後の平和構築委員会の活動とも関連するが、DDRに関しては、当初はDD(武装解除と動員解除)が平和維持活動に属するものであり、R(社会復帰)はその後の開発援助とも結びつく平和構築活動であるとして時系列的に整理して考える傾向があったことは事実である。ところが、実際には、上記2でも述べたように小型武器問題への取り組みは長期にわたる包括的アプローチを必要とする平和構築の主要な柱の一つであることが認識されるようになった。  「平和構築」はその名が示すとおり戦争と平和に関する用語であり、国家間の戦争、紛争だけが問題とされた時代であれば軍備管理・軍縮と同義語と解することができたであろう。ところが、地域・国内の紛争と人間の安全保障を視野に入れる必要がある今日の世界では、そのような紛争地や紛争終了地の人々の安全や人権をも視野に入れた、小型武器対策を含む「平和構築」を必要としているので、「平和」とは国家間の国際的な平和だけでなく、紛争地や紛争終了地での国内の平和、換言すれば治安維持のためにも必要な小型武器が安全に管理され、警察国家のような恐怖が支配する平和でなく個々人の安全と人権も保障されるような平和、をも包含する広い概念として認識されるようになってきたのである。

 4.武器管理の現状、その1

 繰り返しとなるが、DDRに関しては、最初の二つのDDが平和維持活動に属することは明らかであるが、三番目のRだけを切り離して平和構築活動と考えるよりは、DDR全体を不可分なプロセスとして平和構築活動の主要な柱の一つとして考えるべきであろう。その理由は、小型武器は各国が治安のために必要とする特殊な武器であり、これを全面禁止することはできず、治安当局がこのような武器を国民の安全を守るためにしっかりと管理する体制を確立する必要があるからである。それには民主化、法整備などの「よき統治」と「国づくり」のための長期にわたる包括的アプローチが必要であり、小型武器管理そのものを平和構築活動の重要な構成部分と考えるほかはないからである。これは、例えば和平協定の中で対立する諸勢力の武装解除、武器回収などが明記されていたカンボジアの例からも明らかである。和平成立後10年以上経ってもわが国やEUによる小型武器回収、小型武器規制のための法令整備、警察制度への支援努力が続けられてきたからである。また、紛争が修了した多くのアフリカ諸国においても国際援助機関だけでなく国際NGOや地元のNGOが小型武器の回収・管理、子供兵を含む元兵士の社会復帰などの分野での平和構築努力を精力的に支援しているのが現状である。  言うまでもなく、武器管理と平和構築の問題は紛争地や紛争終了地の諸国の国内問題であるばかりでなく、国際レベルでの取り組みをも必要とする問題でもある。上記の97年の国連小型武器政府専門家パネル報告書の提出の後、フォローアップのための政府専門家グループが98年から99年にかけて設置され、同グル−プの提言により2001年には国連小型武器会議が開催されて「小型武器行動計画」が採択された。この「行動計画」によれば各国は国内法令を整備するなどして非合法に小型武器が出回るのを厳格に規制することを求められており、紛争終了地などにおいてはDDRを推進するなどして過剰に出回っている小型武器の回収、廃棄に向けて努力することが求められている。このような国際的な「行動計画」の採択と実施は、国際レベルでの平和構築努力と呼ぶべきものである。

 さらには、この「行動計画」に基づき2005年には小型武器に一丁ごとに刻印を付し、非合法に取引されてもその流通経路を追跡できるようにするための国際文書が採択された。2007年には小型武器の仲介取引(ブローカリング)の規制を検討する政府専門家グループの報告書が提出される予定である。加えて、本年の国連総会でわが国や英国の提案で採択された決議により小型武器に限らず通常兵器全般の輸出入を規制するATT(武器貿易条約)の締結の可能性を検討するための政府専門家会合が2008年に開催されることとなった(12月6日、賛成153、反対1、棄権24)。

 このような武器の供給ルートを規制しようとする努力は、それなしには紛争地や紛争修了地への武器の流入は続き、復興開発などの平和構築が妨げられるからである。ATT条約締結構想は小型武器だけでなく武器取引全般を対象とするものであるが、コスタリカのアリアス元大統領が小型武器問題解決のために提案した条約案が基礎となっている。したがって、ATT条約締結の試みも平和構築活動の一環としての武器管理の試みであると理解してよいであろう。

 その意味では、9.11事件後のテロとの戦いで重視されるようになった大量破壊兵器、ミサイル及びその関連物資の拡散阻止のためのPSI(拡散に対する安全保障構想)も国際レベルでの平和構築活動と理解されるべきであろう。テロリストなどの非政府団体にこれらの物資が渡るのを阻止するのが狙いであるが、紛争地や紛争修了地の破綻国家での無政府状態、無法状態がテロリスト活動の温床となるのを防ぎ、平和を構築していくためにはこれらの物質が流れ込むのを供給ルートにおいて阻止する必要があるからである。2003年のPSI発足当時の参加国は日、米等11国に過ぎなかったが、参加国数が1周年目には60国、2周年目には100国以上に達したことが注目に値しよう。

 2001年に採択された「国連小型武器行動計画」をはじめとする以上の一連の武器規制、武器管理の試みは国際レベルでの平和構築活動にほかならないが、その殆どは法的拘束力のない国連決議などにより実施されており、実際に成果がどれだけ上がっているのかが見極め難い面があることは事実である。しかし、このような地道な努力の蓄積が長い目でみれば国際世論の大きな潮流となり、国際規範を形成していく可能性を過小評価してはならないであろう。

 私は2002年7月にマニラで開催された小型武器に関するセミナーに出席した際にフィリピン国家警察が主催した小型武器破壊式典に参列する機会があった。その席でマニラ市の警視総監が私に「これまでは小型武器を一般市民が保有するのは当然と考えられていたが、そうではないことを一般市民に知ってもらうために警察が率先してこのような式典を行う時代となったことに感慨無量なものがある」と述懐していた。忘れることのできない言葉であった。

 5.武器管理の現状、その2(アフガニスタンにおけるDDR)

 なお、平和構築と兵器管理に関するやや特殊なケースとして、アフガニスタンにおけるDDRでのわが国の貢献が特筆に値するであろう。すでに述べたようにDDRは国連の平和維持活動の一環として和平合意のあった地域での小型武器管理のための活動である。ところが、アフガニスタンにおいてはそのような和平合意は存在せず、国連のPKO軍の展開も行われなかった。9.11事件後の米英軍と北部同盟による軍事活動でタリバン政権が崩壊した後、2001年12月のボン合意で北部同盟などの勝者側各派が新しい中央政府、大統領、議会などを設立すること、そのために新国軍を創設するなどの治安部門改革 (Security-Sector Reform)を行うことを約束したのであった。この新しい国づくりの努力を支援するためのアフガニスタン復興支援国際会議が2002年1月に東京で開催され、同年4月のG8会合で治安部門改革の5分野の一つとしてDDRを日本とUNAMA(国連アフガニスタン支援ミッション)が主導することとなったのであった。

 アフガニスタンにおけるDDRは当初から勝者側の軍閥の兵器、兵員のみを対象とし、そのような軍閥の解体を通じて中央政府の権限を確立することを想定していた。しかし、軍閥解体を実施するのは国連のような中立的な機関ではなく国防省がこれを担当することになっていた。ところが、国防省ではファヒム国防大臣をはじめ北部同盟の特にパンジシール派が主要ポストを独占していたので、先ずは国防省の中立化から着手する必要があった。国防省の中立化は紆余曲折を経て2003年9月に実現するに至った。また、武装解除といっても旧軍閥の権力の象徴である重火器の新国軍への引渡しが最優先課題とされ、重火器集積HWP (Heavy Weapons Cantonment)が行われたが、小型武器の回収などは殆ど眼中になかったという点でも、一般に考えられているDDRとはかなり性格の異なるものであった。

 わが国は2003年2月には東京「平和定着(DDR)」会議を開催して国防省のもとでDDRを実施する機関として新たにANBP(アフガニスタン新生計画 Afghanistan New Beginning Program)を設置し、わが国からの3500万ドルを含む5000万ドルの資金によりDDRを支援することなどを決定した。その上で、軍閥解体に協力するのでなければこのDDR資金は拠出できないなどとして旧軍閥などの抵抗勢力に圧力を加えたのであった。また、新米的なカルザイ大統領を後押しする米国などの諸外国からの圧力も効き目があった。さらには、2004年に行われる大統領選挙には軍閥解体に反対するものは立候補できないとしたことも効果があったとされている。このように、アフガニスタンにおけるDDRは高度に政治なプロセスとして開始され、紆余曲折を経ながらも一定の成果をおさめることができたのである。

 DDRのうちDD部分は2005年6月までに終了し、Rの部分の終了はさらに1年後とされたのであるが、ANBPの発表によればDDにより旧軍閥の兵士6万人余りが武装解除、動員解除され、回収された小型武器は3万6千丁余、重火器は1万1千余とのことである。別の推計によれば重火器集積計画HWCにより集積されたのは約5000両の戦車、火砲などのうち3分の2ほどであったとのことである。

 アフガニスタンにおけるDDRは以上のように高度に政治的なプロセスであったが、これが軍閥の解体と中央政権の基盤確立といった平和構築のプロセスとして一応の成功をおさめることができたのは、DDRの主導国日本を代表して陣頭指揮に当たり、現地語にも達者な駒野大使の並々ならぬ努力と、これを東ティモールやシエラレオーネでのDDRの経験を踏まえて強力に補佐した伊勢崎賢治氏の強固な意志に負うところが大であったことは言うまでもない。

 もちろん、これですべての問題が解決したわけではなく、旧軍閥の兵員や兵器の少なくとも2、3割程度は解体されずに温存されているとのことであり、DDRの対象とされなかったタリバンなどの非合法武力勢力の解体DIAG(Disbandment of Illegal Armed Groups)も今後の課題である。さらには、残された小型武器の回収、管理の問題もある。したがって、将来を予測することは困難であるが、それでも、アフガニスタンにおいてわが国の主導で行われたDDRのこれまでの成果は平和構築における武器管理の重要性を如実に示すものであったと言うことができるであろう。

2006.10.20
事務所移転及び近況のお知らせ

事務所移転及び近況のお知らせ

2006.10.20

謹啓

 秋冷の候、ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。

 当センターは去る8月24日の第10回通常総会での諸決定を踏まえ、簡素化、合理化した運営体制のもとで本来の設立趣旨に沿った活動を行うべく努力を続けていますが、その一環として本月末には事務所を移転することになりましたので、これを含め、下記のとおり近況をご報告させていただきます。

1.事務所移転について
 当センター事務所はこれまで森ビル株式会社のご好意により六本木ヒルズの近くのフェリア・ビル4階に間借りさせて頂いておりましたが、本年10月26日以降は明石書店の石井照男社長の格別なお取り計らいにより同書店の湯島ビルの2、3階を使用させて頂くことになりました。新事務所の住所、電話番号、FAX番号は次のとおりです。(Eメール、URLは従来どおりです。)

 住所:   〒113−0034 東京都文京区湯島2−14−11

 電話番号: 03−3834−2651

 FAX番号:03−3834−2652

2.スリランカ法務副大臣を迎えての講演会
 別途ニューズレター、ホームページ等でご案内しますが、10月28日(土)午後3時から5時まで在京スリランカ大使館と共催でスリランカのディラン・ペレーラ法務副大臣の「平和イニシアティブとスポーツ」と題する講演会を広尾のJICA地球ひろばにて開催しますので、ご都合がつく方々のご参加をお願い申し上げます。

3.ホームページの改定作業
 新体制のもとでの当センターの再出発の姿勢をアッピールするにはホームページhttp://www.jccp.gr.jpも新しくする必要があり、現在でもご覧頂けるとおりこれまでに蓄積されたデータはなるべく保存した上でのリニューアル作業を行っているところです。完成までには若干時間がかかりますので、その間ご不便をおかけしますが、ご容赦願います

 敬具

2006.9.7
第10回通常総会についての報告

第10回通常総会についての報告

2006.9.7

去る8月24日に開催された当センターの第10回通常総会には正会員60名のうち44名が出席されました(本人または代理人出席11名、書面表決による出席21名、委任状による出席12名)。賛助会員13社のうちご出席は11社でした。

 冒頭の挨拶で明石会長は次のように述べました。

 「当センターはわが国では唯一の予防外交、紛争(再発)予防、平和構築などに特化した団体として知られてきましたし、海外での初めての日本人による地雷除去活動だけでなく、国内での紛争予防市民大学院セミナー・コースの開催などの人材育成分野でも実績を高く評価されてきました。したがって、苦しい中でも存続の道を選び、本来の姿に立ち戻り、再起を期して欲しいとする声があることも事実です。

 去る8月3日の理事会でもこの問題は真剣に議論されました。結論的には、本部体制および海外事業体制を大幅にスリム化、合理化した上で、当センターがその本来の設立趣旨に沿って紛争予防分野での民間レベルでの貢献を推進する団体として立ち直り、再出発することを目指すことになりました。」

 (この8月24日の総会で承認された当センターのこれからの運営体制、運営方針の概要は以下のとおりです。


1. 定款の変更

 総会で運営体制を簡素化、合理化するための定款の変更が承認されました。主な変更は次のとおりです。

① 副会長、所長などは置かなくてもよいこととし、所長の権限も縮小する。(小さな組織にしては「頭でっかち」でした。また、理事長と所長の抗争も繰り返されました。)

② 監事は2名から1名に削減する。

③ 賛助会員制度は維持するが、名目化していた賛助委員会は廃止する。(長らくオムロンの立石信夫相談役に賛助委員長をつとめていただきましたが、本年2月に辞任されました。)

④ すでに取崩されて存在しない「特別基金」も廃止する。(総会に提出の同基金管理報告書で報告しましたように、誠に残念なことに同基金は1年以上も前に取崩され、費消されて特別基金としての機能を失っていました。)

2. 役員体制の刷新

 総会で新理事2名、新監事1名が選任されました。昨年はじめの段階では理事総数は12名でしたが、その後阿曽村邦昭理事、石井一二理事、浜田卓二郎理事、伊藤憲一理事、小笠原敏晶理事が辞任されました。また、山本浩理事が逝去されました。新理事としては3月の通常総会で選任された折田正樹理事に続き、今回の総会で柴田秀孝理事、塚本俊也理事が選任され、理事総数は9名となります。監事も市川伊三夫監事、宮本けいし監事が辞任され、後任として植村高雄新監事が選任されました。

 なお、新理事のうち柴田秀孝様はセゾン・グループの人材派遣会社ヒューマンプラス社の常務取締役で、塚本俊哉様はハビタット・フォー・ヒューマニティー・ジャパンの事務局長です。新監事の植村高雄様はキュール・カリタス・カウンセリング学会会長です。

 したがって、役員体制は次のとおり刷新されました。

昨年4月1日時点         本年8月現在

会長  明石 康         会長  明石 康

理事長 石井 一二       理事長 堂之脇 光朗

理事  阿曽村 邦昭      理事  伊勢崎 賢治

理事  伊勢崎 賢治      理事  井上 美悠紀

理事  伊藤 憲一        理事  小川 和久

理事  井上 美悠紀      理事  折田 正樹

理事  小笠原 敏晶      理事  柴田 秀孝

理事  小川 和久        理事  杉下 恒夫

理事  堂之脇 光朗      理事  塚本 俊也

理事  杉下 恒夫

理事  浜田 卓二郎

理事  山本 浩

監事  市川 伊三夫      監事  植村 高雄

監事  宮本 けいし


3. 運営方針

 スリランカ寄付金問題を防止できなかった従来の運営体質を是正するため、以下を運営方針とすることを総会に報告し、了承されました。

① 海外においては今後寄付金を受け取らない。

② 資産管理面では透明性、説明責任の徹底化をはかる。

③ 本部による在外代表事務所の指揮、監督体制および支援体制の明確化をはかる。

④ 本部においては会費収入、寄付金収入などによる自己資金獲得のために一層の努力を行う。


4. 当面の事業活動方針

 総会に以下を報告し、了承されました。

 スリランカ寄付金問題への反省から、当分の間外務省への事業助成申請を自粛することとし、ジャパン・プラットフォーム(JPF)からも自主的に退会しました。このため、残念ながら、当センターが誇りにしてきたスリランカ及びアフガニスタンでの地雷除去事業からはすでに撤退しました。したがって、在外代表事務所は当面はカンボジアを残すだけで、海外事業体制は大幅にスリム化されました。

 本部体制も大幅にスリム化し、職員数削減などにより経費節約に努めてまいります。

 明年以降は助成事業への申請を再開する方針ですが、確保し得る自己資金に見合った規模の事業活動を目指します。差し当たりは当センター本来の任務である紛争予防、平和構築分野などでの人材育成、知識普及、調査研究などに力を入れる方針です。また、カンボジアを中心に海外事業活動も徐々に充実させていく方針です。

2006.4.1
平成18年3月27日の第9回通常総会での理事長の決意表明

平成18年3月27日の第9回通常総会での理事長の決意表明

2006.4.1

当センターの在スリランカ代表事務所は昨年初頭以来スリランカにおける津波災害緊急支援活動を成功裏に実施してきましたが、その際に現地関係者から寄せられた寄付金の集め方や使い方が適正なものであったかどうかについて本年2月に私が理事長に就任して以来解明につとめてまいりましたので、その結果を発表いたします。

 この問題は昨年夏に当時の石井理事長が健康上の理由で休職に入った直後、その休職期間中理事長職務をボランテイアで代行した理事によって最初に提起され、調査の必要が指摘されながら、秋に石井理事長が復職して以来対応が遅れていたものです。本年2月に私が理事長に就任するとともに、もはや放置することのできない問題として実情把握につとめてまいりました。

 当時の現地責任者(本年1月に退職)等の説明によれば、当時の在スリランカ代表事務所が現地での活動を維持、継続するためには現地の業者などから申し出のあった自発的な善意の寄付を拒否する選択肢がなかったのは事実であるが、そのような寄付を現地での物資調達契約などの条件としたことはなく、またすべての寄付は緊急支援などの当センターの現地活動のために使用され、かつ正規帳簿にも記載するなど厳正に管理されてきたとのことでした。

 当センターは、その後独自に内部調査を行ってまいりましたが、当時の現地責任者等の以上の説明に主観的には偽りはないものの、甚だ遺憾なことに、当センターの現地活動のために一部の公的資金の不適切な使い方がなされた事例も存在することが判明しましたので、その点につき深く反省いたしております。

 このようなことは二度と繰り返されてはならず、そのためには当センターのすべての資金の運用、管理において今後はいっそうの十分な透明性を確保し、説明責任を果たしていく覚悟であり、運営体制の改革も推し進めていく覚悟であります。当然のことながら、今後は善意の寄付であっても現地においてはこれを一切受け取らない、とする方針であります。また、当センター本部の在外代表事務所に対する監督、管理体制が十分でなかったことも問題の一因であったので、これも直ちに是正する覚悟であります。

 以上